スクラップ・ヘブン
2007/3/22
2005年,日本,117分
- 監督
- 李相日
- 脚本
- 李相日
- 撮影
- 柴崎幸三
- 音楽
- 會田茂一
- 出演
- 加瀬亮
- オダギリジョー
- 栗山千明
- 光石研
- 柄本明
刑事になりたてのシンゴは劇的な事件を解決することを夢見ていた。ある日、乗り合わせたバスでバスジャック事件が発生するが、何もできず、一人の若者が撃たれてしまう。数ヵ月後その若者テツと再開したシンゴは自分の鬱憤をテツにぶちまける…
加瀬亮、オダギリジョー、栗山千明という若手実力派俳優が競演した青春ドラマ。監督は『69 sixty nine』などの李相日。
テツに自分の鬱憤、よくわからないけれどむかつくという鬱憤をぶちまけるシンゴは自分にも周りにも想像力が欠けているんだという。自分に想像力があれば何かがもっとましになると漠然と考えているのだ。そしてテツは“復讐代行”という行動を通して、シンゴに欠けているという想像力を補ってやるわけだ。
想像力が発揮されるのはテツがその復讐代行をするときである。医療ミスで母親を死なせた院長に復讐をしたいという看護士の依頼に対して、青汁やバイアグラの入った注射を彼の体に打ち込もうとするなど、ようするに度を過ぎたいたずらによって復讐を成し遂げるのだ。
シンゴはそれが誰も傷つけないものであると安心して彼の行為を手伝う。警察官である彼はやはり正義を信じており、自分の行動が世の中の悪に何らかの成敗を加えながらもほかの人を傷つけないということに喜びを感じるのだ。
そのいたずらにシンゴは満足するが、実際のところそれで何かが変わるわけではない。そんな小さな復讐ではまったく揺るがないもっと大きな何かが世の中にはある。テツとサキはシンゴとは違ってその何かに対して鬱憤を抱えているのであり、シンゴのように小手先のストレス解消でその何かを忘れることができるほどにお気楽ではないのだ。
このシンゴとテツ(とサキ)の決定的な断絶がこの物語に更なる展開をもたらすわけで、そこには地下鉄サリン事件なんていう底知れぬ深い闇もかかわってくるのだけれど、地下鉄サリン事件のような巨大なものになってしまうと、それは想像力というモノからはかけ離れてしまうのではないか。そこに現れる世界は、テツが想像したような世界であるにもかかわらず、限りなく殺伐としている。ここに至ると彼の想像力とはシンゴがいうように妄想でしかなかったと思えてくる。
そしてそれとは逆に、シンゴは最終的には保身を図ろうとするわけだけれど、実は彼こそが本当の想像力を持っていたのではないか。
彼らが小さく復讐の代行をしていた時、彼らはその復讐の相手に彼らに復讐心を抱いた人の痛みを味あわせていた。それは彼らに欠けている他者への想像力を植えつけることだったのではないか。同じ痛みを感じさせることによって被害者の痛みを知る。そこから他者への想像力という新しい回路が開ける。彼らがやっていたのはそのようなことではなかったのか。
しかし、より大きな行動へと移ったとき、彼らのそのような原則はすっかり崩れてしまった。派出所から拳銃を盗み出すことによって他者への想像力が働くことはない。それでは結局何も替わらないのだ。規模が大きくなればそれは現象となり、個人の手を離れてしまう。他者への想像力とは個人が働かせるべきものであって、現象として起きることではない。
だから結局、彼らは間違っていたのだ。小さなことをやり続けていては埒が明かないと考えたテツも、そのテツに自分の想像力を預けていたシンゴも。彼らは小さな復讐を続けて、人々が他者への想像力を少しでも身に着けるよう勤め続けるべきだったのだ。
そう考えると、本当は誰も傷つかないということを大前提として行動していたシンゴこそが最も他者への想像力を持っていた人物だったのではないかと思えてくる。他人の痛みを想像することができる彼に足りなかったのは想像力ではなく勇気だった。この映画のラストを見たときは、なんだかなーと思ったが、相考えてみると、あのラストこそは彼がその勇気をついに手にした瞬間だったのかもしれないと思えてくる。