モロッコ
2007/3/29
Morocco
1930年,アメリカ,92分
- 監督
- ジョセフ・フォン・スタンバーグ
- 原作
- ベノ・ヴィグニー
- 脚本
- ジュールス・ファースマン
- 撮影
- リー・ガームス
- 出演
- ゲイリー・クーパー
- マレーネ・ディートリッヒ
- アドルフ・マンジョー
- ウルリッヒ・ハウプト
モロッコで外人部隊に所属するトムは街に何人も女が居た。しかし、その街に歌手としてやってきたアミーは簡単にトムの手には落ちなかった。徐々にアミーのことを本当に好きになって行くトム。そしてアミーも…
『嘆きの天使』でスタンバーグに見出されたマレーネ・ディートリッヒがアメリカに渡って撮った第1作。日本では字幕スーパーがついたはじめての作品としても知られている。
モロッコが舞台といいながら、背景は書割で街はあからさまにセットであることは見え見えだが、モロッコが部隊の映画だからと言ってモロッコで撮影しなければならないわけではなく、本当のモロッコ人を出す必要があるわけでもないということをこの映画は強固に主張しているようだ。
映画というのが作り物であることをこの映画は冒頭から暴露する。もちろんわざとそうしているわけではないだろうが、当時のハリウッドの製作の仕方ではそれが作り物であることは明らかなのだ。しかし、その中で長身の美男子ゲイリー・クーパーが登場し、さらにマレーネ・ディートリッヒが現れ、そして彼女が舞台に立つとそれが作り物であるということはどうでもよくなるのだ。
そのモロッコが作り物であろうとなかろうと、銀幕の上に映った世界はそもそも作り物である。作り物であることを知った上で、そこに登場する美男美女に酔い、その物語に酔って、別世界に行ったかのような夢を見る。それが映画というモノなのだ。
マレーネ・ディートリッヒは初めて酒場の舞台に上がるとき、まずは男装で歌を歌って観客の心をつかみ、次には自慢の脚線美を露わにしてして現れる。観客はその酒場の客と同じように彼女の脚線美に感嘆し、その世界に入り込むのだ。いくら作り物じみていてもそのようにして銀幕の世界に観客を引き込んでしまう、それこそが映画的快楽なのであり、この作品は単純にその映画的快楽を生み出す。
それは今見ても変わらない。ディートリッヒが客席を廻ってリンゴを売るときの魅惑的なまなざしと仕草を観ていると、すーっとその世界に引き込まれるような感覚に襲われるのだ。
ジョセフ・フォン・スタンバーグはサイレント期から活躍し、ハリウッド映画の黄金時代にも(主にマレーネ・ディートリッヒ主演で)多くの作品を生み出し、代表的な監督のひとりと言ってもいい存在になっている。しかし、彼の作品にいわゆる芸術的なものはまったくと行っていいほどない。彼の作品はあくまでも娯楽映画であり、ただただ観客を楽しませる作品なのだ。そんな彼がハリウッドの黄金時代といわれる30年代を代表する監督のひとりであるというのは、この黄金時代のハリウッドがまず娯楽映画によって、映画の娯楽としての側面によって成り立っていたということを端的に表す。
そして、この作品はその代表的な作品と言ってもいい。この物語ではすべての行動がメロドラマ的な結末に向けて組み立てられ、すべてのシーン、すべての人間の心理はラストのカタルシスに向けた伏線となっているのだ。有名なディートリッヒがハイヒールを脱いで砂漠を駆け出すシーンで感じられるカタルシスに向けて、すべての要素が組み立てられているのだ。
これこそが娯楽映画、これこそが映画的快楽である。声を手にした映画は、サイレント映画が作り上げてきた物語り方を利用しながら、観客に語りかけることで更なるカタルシスを生み出すことに成功した。あまりに単純なプロットは今見ると退屈ではあるけれど、現在の娯楽映画のほとんどはこの作品に観られるようなカタルシスに向けた単純な物語の構築に様々な肉付きを与えただけのものである。この作品にはこの時すでに完成されていた娯楽映画のパターンというものがはっきりと見える。