ママの遺したラヴソング
2007/4/5
A Long Song For Bobby Long
2004年,アメリカ,120分
- 監督
- シェイニー・ゲイベル
- 原作
- ロナルド・イヴァレット・キャップス
- 脚本
- シェイニー・ゲイベル
- 撮影
- エリオット・デイヴィス
- 音楽
- ネイサン・ラーソン
- 出演
- ジョン・トラボルタ
- スカーレット・ヨハンソン
- ガブリエル・マクト
- デボラ・カーラ・アンガー
- デイン・ローデス
フロリダで暮らすパーシーは恋人から2日遅れで母ローレンの訃報を聞く。長い間音信不通だったとはいえ、母親の死を伝えなかった恋人に憤りつつパーシーはニューオリンズへと着く。そこでパーシーは母と暮していたボビーとローソンに会う。深い悲しみの中でパーシーを邪険に扱うボビーに反発しパーシーは遺品の本を手に帰ろうとするが、その中の本の一冊感動し残ることを決意する…
スカーレット・ヨハンソンとジョン・トラヴォルタ共演のヒューマン・ドラマ。予定調和のハンカチものだが、スカーレット・ヨハンソンはなかなか。
「こうなるんだろうなぁ…」という予想通りに進む映画というのがたまにある。映画を見るとき、誰でもたいていこの後の展開というのを予想しながら見るわけで、それが少しずつ裏切られながら進むというのが映画の面白さだと思うのだが、この映画にはそれがまったくと言っていいほどない。特に映画に対する予備知識がなくとも、「この設定ならこれがこうなるんだろうなぁ」という予想を立てればそれがそのままスクリーンに現れるのである。
もちろん小さな裏切りや驚きはあるが、それはプロットに寄与するような物ではなく、単なるエピソードというレベルの驚きに過ぎなくて、物語はやはり予想通りに進んで行くというわけだ。だから、何も考えずにボーっと見ていればよく(というより、余計なことを考えても徒労に終わる)、なんとな~く映画は進み、なんとな~く映画は終わるのだ。そして最後は予想通りお涙頂戴の展開となり、これ見よがしの感動を振りまいてエンドロールを迎える。
映画をそれなりに観ていると、こんな映画に感動するということはなかなか難しいが、それでも感動する人はやはりいる。それはその人のレベルが低いとかそういうことではなく、このような映画がどのようなターゲットに向けて作られているのかということによるのだ。
このような予定調和の映画というのはある種の「お伽噺」である。お伽噺というのは予定調和であるからこそいいのであり、だからこそ何度読んでもうんうんと納得できるのである。そこにあるのは結末を知っている安心感であり、予想通りに訪れる幸せへの満足感である。子供が同じお伽噺を何度も聞かせてもらうのを好むのはそのような安心感によるのだ。現実というのは予想がつかない世界であり、子供には手に余る世界である。その予想のつかない世界の中で予想通りに物事が進む安心感というのは絶大な力がある。それは自分が全てをコントロールしているかのような錯覚すら与えるのである。
このような映画もそんなお伽噺と同じ力を持っている。もちろん、この映画とその物語に出会うのは初めてだが、そこにあるのはひとつのパターンのバリエーションであり、パターンをつかんでしまえば結末は自ずとわかってくるのだ。だから観客はハラハラすることなく、安心して映画を見ることが出来る。それは現実に疲れた観客にとっては癒しなのだ。赤ん坊が安心して浸ることができる羊水のプールのように人々に安心感を与えるのである。
何らかの刺激を得ることで現実を乗り越えようという人にとってはこの映画はまったく退屈な寓話に過ぎない。しかし、現実に疲れ、安心できる場所を探している人にとっては自分の心の空白を満たしてくれる物語になるのだ。
そして、この物語の主人公パーシー(スカーレット・ヨハンソン)もまた自分が安心できる場所を捜し求めている存在だ。過去にも現在にも想い出の中にも安心できる場所を持たない彼女は、常に現実の不安にさらされ、安心できる場所を求め続ける。その不安のために彼女は警戒心を強め、それがさらに安心できる場所を見出す障害になっている。そんな彼女の心が徐々に解きほぐされ、少しずつ安心できる場所を見出して行く。この物語がそのような物語であることによって、この作品の“お伽噺効果”は倍増される。そして、ボビーもローソンも同様に安心できる場所を探しているのである。ボビーはローレンという安全地帯を失ったことによって、ローソンはボビーが安全地帯を失ったことによって果てしない不安感を抱えてしまっているのである。
不安な現実を生きる大人のためのお伽噺、そう考えれば、それほど悪くない作品だ。