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ベストセラー

洲崎パラダイス 赤信号

★★★.5-

2007/4/14
1956年,日本,81分

監督
川島雄三
原作
芝木好子
脚本
井出俊郎
寺田信義
撮影
高村倉太郎
音楽
真鍋理一郎
出演
新珠美千代
三橋達也
轟夕起子
芦川いづみ
植村謙二郎
牧真介
小沢昭一
preview
 お金も泣くふたりで途方にくれる蔦枝と義治、蔦枝は情けない義治を無視して遊郭“洲崎パラダイス”の入り口にやってくる。そして橋の袂にあった一杯飲み屋に入り、運良くそこで仕事を見つける。さっそく働く蔦枝を尻目に義治は憂鬱をつのらせる…
  男と女を描いた川島雄三の代表作。花街の裏表を知り尽くした飲み屋の女将を演じる轟夕起子がいい存在感を見せる。
review

 モダニズム映画の巨匠の一人として知られる川島雄三は映画界では遊び人として有名で、その遊びがたたって体を壊して夭逝したとも言われる。その川島雄三が廓を描いた作品と言えば、古典落語の廓話をいくつか組み合わせて作り上げた『幕末太陽傳』がまず思い出されるが、これは古典落語の時代そのままに江戸時代の廓(品川)を描いたものだった。それに対してこの作品は、現在の廓(現在というのはもちろん1956年当時のこと)である洲崎パラダイスを舞台とした。
  洲崎パラダイスは戦前は洲崎遊郭といったものが戦後に改称されたもので、現在の江東区東陽付近(木場駅の近く)にあった。1955年頃には約200軒のカフェーがあり栄えていたが、この映画でも話題にされる58年の売春防止法施行によって姿を消した。戦前には「吉原大名、洲崎半纏」といわれたように、洲崎は庶民が遊ぶ遊郭だった。

 その現在を描くということは、そこに来る男と、そこで働く女たちを描くということである。この物語の主人公である蔦枝は明らかではないが、以前は遊郭にいたことがほのめかされている。蔦枝と義治の関係もまた明らかにはされないが、義治が倉庫番をクビになったということなどからして、おそらく会社の金を横領するか何かして蔦枝を身請けしたのではないかと推測できる。それですってんてんになってしまったふたりは、途方にくれながらやはり遊郭にたどり着いてしまう。今回はその入り口の端の手前に踏みとどまるが、そこには一歩踏み出せば元の遊女に逆戻りという危うさが見えている。
  だから義治は落ち着かない。蔦枝がかたぎの仕事をしていても、そこにやってくるお客に色目を使うと、不安になる。なぜなら蔦枝は「そういう女」だからだ。蔦枝も最初は義治のためにカタギになろうと努力をし、義治もそうなってくれることを願うのだが、義治の疑り深さが蔦枝を苛立たせ、蔦枝はついに金離れのいいラジオ屋の社長落合の二号になってしまう。
  それによって周囲は蔦枝をやはり「そういう女」だったと観るわけで、観客にもそう映るが、蔦枝は義治に未練を残す。そして義治も勤めるソバ屋で働く娘玉子に好意をもたれているにもかかわらず、蔦枝を追いかける。この男と女の間の感情の機微、それを川島雄三は描こうとする。遊郭の女は確かに遊郭の女であり、普通の女とは違うことをこの映画は認める。しかし、それは彼女たちが男にだらしがないということではなく、逆に男に対する情が深いということなのである。だからいったん自分に惚れてくれた男にはずっと未練を持ち続け、男が帰ってくれば、それが他の女のところからでもその男を迎え入れてしまうのだ。

 そして、そのような女の行く末を演じるのが轟夕起子である。洲崎橋の袂の一杯飲み屋の女将である轟夕起子演じるお徳も、今はカタギだが、以前はおそらく洲崎の遊女であったのではないか。今はいなくなってしまった亭主との間に子どもができ、遊女をやめて飲み屋を始めた。しかし亭主は若い女に乗り換えて、どこかへ行ってしまった。しかしそれでも彼女は夫を待ち続け、お参りを欠かさない。
  これが男にかける情けである。男がどんなに情けなくとも自分は男に情けをかける。それが遊郭に生きた女たちの情の深さであり、弱さでもある。轟夕起子はその情け深さを丸くなりお母さん全とした姿で演じ“女”を演じる。それはマキノ雅弘、島耕二という2人の監督と相次いで結婚しながらどちらも破局に終わった彼女自身の人生とも重なるのかもしれない。
  そう思うのは、夫が帰ってきたとき、その夫が死んでしまったとき義治が蔦枝のところに向かおうとするとき、その一瞬一瞬で見せる彼女の表情に苦しさや控えめな悦びがにじみ出るからだ。もちろん何十年という演技の経験の賜物だろうが、それだけではない内面からにじみ出るようなものも感じられてしまうのだ。そこにこの作品における女の描写の素晴らしさがある。

 そしてまた、男の描写もまた見事だ。ここで男はただ情けないだけの生き物である。義治しかり、お徳の夫しかり、男という生き物はとにかくだらしがなく情けない。川島雄三は自嘲気味に男をそのように描く。もちろん全ての男がというわけではなく、遊郭に通うような男たちを指して言っているわけだが、男の本質とは誰もそんなものであり、遊郭に通うような男にはそれが表れているだけなのだ。
  その中で、中心的になるのは、義治とお徳の夫伝七と若者の信夫である。伝七は女にだらしがない典型的な男で、信夫は純粋だが結局何もできない男、義治は決断力がない男である。そして三人が三人とも自分の情けなさを自覚しているにもかかわらず、それを克服できず、結局女にそれを着せてしまうのだから、ひどいもんだ。それでも女はそんな情けない男を受け入れ、情けをかけてあげるのだから、川島雄三の女に対する信用は相当なもんだ。

 川島雄三なりの男と女の物語、それは遊郭という男女の関係が生々しく表れるその場所と紙一重のところにある。遊郭に通うような男の日常と、遊女であったような女との日常生活での関係、それこそが彼にとってのリアルな男女の関係なのだ。それはつまり、男女の関係の生々しさを経験した男女が、欲得を抜きにしてぶつかった時に表れる関係であり、そこに表れる生の感情こそが男と女が互いをどう捉え、どう受け入れるかということなのだ。

Database参照
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国別・年順: 日本50年代以前

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