太陽
2007/4/20
Solntse
2005年,ロシア=イタリア=フランス=スイス,115分
- 監督
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 脚本
- ユーリー・アラボフ
- 撮影
- 音楽
- アンドレイ・シグレ
- 出演
- イッセー尾形
- ロバート・ドーソン
- 佐野史郎
- 桃井かおり
- つじしんめい
- 六平直政
第二次大戦終戦間近の東京、天皇は閣議をこなし、研究所で時間を過ごす。閣議では陸軍大臣が本土決戦と息巻き、天皇もそれを否定しない。しかしある夜、魚のような飛行機による空襲の悪夢を見る…
ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『Telets』に続いてアレクサンダー・ソクーロフが昭和天皇を描いた4部作の3作目。イッセー尾形の演技は必見。
昭和天皇の姿を覚えている人なら、このイッセー尾形を見たらついついほほが緩んでしまう。「あ、そう」という口癖、ガニ股の歩き姿、口をもごもごさせる癖、記憶のかなたに押しやられていたそんな昭和天皇の姿がイッセー尾形によってよみがえるのだ。もちろん私が知っているのは平和な日本の一人間としての昭和天皇であって、神であり元帥であった昭和天皇ではない。しかし、神であり、元帥であったときも昭和天皇はやはり昭和天皇であった。この映画はそのことを私たちに説明するようだ。
もちろん今考えれば天皇が現人神であるはずなどなく、人間であるに違いない。しかし、当時の人にとって見れば天皇とは紛れもなく神であったのだ。その神が人間であると宣言すること、その意味は今では想像することしかできない。そして天皇は自分が人間と何も(あるいはほとんど何も)変わらないにもかかわらず、神として生きてきたことをどう考えていたのか。
ここで描かれるのは、結局、天皇は自分と皇族と国民のことを考えて生きていたということだ。神として生きることも自分と皇族と国民のためであり、それを辞めることも自分と皇族と国民のためのことであったのだ。
この作品は、悪夢や日記や日常を通してそのことをじっくりと描く。実際の無条件降伏のエピソードや、人間宣言の現場を写すのではなく、その前後の天皇の日常を描くことによってそれらの事件が彼にとってどのような意味を持っていたのかを描こうとするのだ。
それは、昭和天皇をわれわれと同じ人間のレベルに引き落とすことである。しかしそれは彼をさげすむことではなく、評価することである。作られた神から、意思を持った自由な人間へ、彼は人間になることを自ら選び、自由と尊厳を手にした。天皇を崇拝する人にとっては我慢できないことなのだろうけれど、その崇拝は彼の人間としての尊厳はまったく無視しているのだ。ソクーロフは天皇が人間になる過程を描くことで彼に尊厳を持たせたのだ。
しかし、それがどのような意味を持つのか。彼が人間なのは今から見れば当たり前だし、いまさらそのことを語ることに何の意味があるのか。この作品が語ろうとしているのはその天皇を取り巻く人々のことだ。彼が人間になることでさまざまなことが変わり、さまざまな人の人生が変わったはずだ。この作品にそのことはまったく描かれない。ただそのことを考えるためのヒントがわずかに描かれるだけなのである。
それは2時間の映画にしては少し物足りないものだ。終戦と天皇の人間宣言についてまったく知らない人ならともかく、何がしかの知識を持った日本人にとっては言わずもがなのことも多く感じられてしまう。
一見の価値はあるが、それはこの作品の語ることを考えるためではなく、その時代と昭和天皇を見事によみがえらせた映像とイッセー尾形を見るためだ。そのようにして過去をよみがえらせることから何かが生まれる。そんなこともあるかもしれない。