我輩はカモである
2007/4/25
Duck Soup
1933年,アメリカ,69分
- 監督
- レオ・マッケリー
- 脚本
- バート・カルマー
- ハリー・ルビー
- 撮影
- H・シャープ
- 出演
- グルーチョ・マルクス
- チコ・マルクス
- ハーポ・マルクス
- ゼッポ・マルクス
- マーガレット・デュモント
財政難に陥ったフリードニアでは、富豪のディスデル夫人の一言でルーファスを首相として迎えることに決まる。その就任パーティの席で、国家転覆をもくろむ隣国の大使トレンティノはディスデル夫人に取り入ろうとし、さらに2人のスパイを送り込むが…
マルクス兄弟のナンセンスコメディの傑作。これを最後にMGMヘと移籍した彼らは一転スターとなるが、興行的には失敗したこの作品が最高傑作と見るむきもある。
実際に今、普通にコメディとしてみてこの作品が面白いかどうかは微妙なところだ。今見て面白いのは、主役のグルーチョよりもその2人の兄チコとハーポのドタバタであるように思える。2人が展開するコントはまさにスラップスティックで、ベタではあるが、今でも笑える。ピーナッツ売りのくだりなんかは、テンポよく繰り返していくことでどんどんおかしくなっていくコントの教科書のようである。ただ、この2人の面白さは抜群に面白いというわけではない。基本的にサイレントのギャグ(ハーポのほうは言葉がしゃべれない役である)であるこの2人のコントは先人のキートンやハロルド・ロイドやチャップリンのものと比べて劣っているとは言わないが、優れているとは言いがたい程度のものだ。
それに対してグルーチョ・マルクスの芸はまさにトーキー時代のギャグであり、これ前でのコメディ映画にはないものであるということは見ていてわかる。そもそも彼らは舞台出身であり、小さな劇場という空間を生かした辛辣さが売りだった。グルーチョはそれをそのまま映画に持ち込んだわけで、それは単なるドタバタや人情劇にあふれていた喜劇映画化にとっては革命的な出来事だっただろう。しかし、同時にそのような小屋向けの笑いが映画という大きな大衆に向けたメディアには受け入れがたかったというのも事実であるようだ。マルクス兄弟が映画に進出してパラマウントで撮った5本の映画(この『我輩はカモである』がその最後の作品)は興行的には平凡なものに終わった。
しかし、彼が映画に持ち込んだ新しさは後の映画人たちに大きな影響を与えていく。彼が映画に持ち込んだのは「ナンセンス」であり「アナーキー」だ。この作品でグルーチョのギャグの多くが笑えないのはそれが「ナンセンス」であるからだ。ナンセンス・コメディというのはいつの時代も見る人を選ぶ。ナンセンスな笑いとはそれを見る側にそれに答えるものがあって初めて笑えるからだ。それが笑いとなるにはその前提として何らかの了解事項があり、それを演者と観客が共有して初めて笑いが生まれる。劇場ではそれは容易だったが、映画ではなかなか難しい。いまでも『モンティ・パイソン』が一部の人には熱狂的に迎えられ、他方で多くの人には理解できないのはナンセンス・コメディのそのような特徴によるのだと思う。
他方、アナーキーのほうは笑いには結びつきにくいが、理解はしやすい。この作品では政治というもののナンセンスさを笑い飛ばすことによってアナーキーな表現を実現している。それは敷衍していけば社会批判というものにもつながるわけだが、それは受けての問題であり、作品としてはアナーキーさの表現にとどまっている。これは非常にうまいと思う。アナーキーであるということは何かを破壊することである。何かを破壊してそこに別のものを再構築するのではなく、ただ破壊するのである。だからそのあとに残るのはいわば瓦礫の山であり、つまりは無意味なものだ。
そのようなアナーキーな行為には、破壊の爽快感と、その無意味な場所に何かを再構築しうるという期待感が存在する。ウディ・アレンは観客がこの期待感を確実に抱くように作品を構築することでアナーキーさとやさしさを同居させることに成功した。
この作品は決して爆笑コメディというわけではない。しかし見終わってみると不思議な爽快感があり、考えさせられるものもある。後世の、特にアメリカのインテリといわれる映画人が影響を受けたというのもわかる気がする。