ブロンドの恋
2007/4/26
Lasky Jedne Plavovlasky
1965年,チェコスロヴァキア,88分
- 監督
- ミロス・フォアマン
- 脚本
- ミロス・フォアマン
- ヤロスラフ・パポセック
- イヴァン・パッセル
- ヴァクラフ・サセック
- 撮影
- ミロスラフ・ハエック
- 音楽
- エヴセン・リン
- 出演
- ハナ・ブレチューバー
- ウラジミール・プホルト
- ウラジミール・メンシーク
- イヴァン・ケイル
2000人の女工が働く製靴工場があるチェコの田舎町、女工たちの流出に頭を悩ませる経営陣は軍に掛け合って兵士たちを駐屯させて女工たちの生活を一新させようとする。
その女工の一人アンドゥラはボーイフレンドのトンダにもらった指輪を友達に自慢し、森番にもモーションをかけられたことも自慢する。
後にハリウッドに進出して『カッコーの巣の上で』『アマデウス』を撮ることになるミロス・フォアマンの初期の代表作のひとつ。
この映画はギターを持った少女が調子っぱずれの歌を歌うという人を食ったような映像で始まる。かなり長いタイトルロールの間、その調子っぱずれの歌が流れ続けると、2人の少女がベッドでひそひそと会話をしているシーンへと移る。そのシーンは少女のうちの一人アンドゥラがただただ自慢話をしているというシーンである。このシーンもなんだかどうでもいいような話して、いったい何の映画なんだという気になる。
そして、その印象はこの作品を通してある。この作品に登場する人々はみな自分のエゴの言うなりに行動し、エゴイスティックな言葉をひとに浴びせる。そのエゴイズムの応酬は見ていて非常に不愉快なのだ。
しかし、映画がこのように不愉快という感情を強烈に引き起こすというのは映画に力があるということでもある。映画の“強さ”は見ている人の内にどのような強い反応を引き起こすかということにある。笑い、感動などというポジティブなものあるが、この作品のように怒りや不愉快さというネガティブな反応を引き起こすものもある。
もちろん見ていて面白いと思えるのはポジティブな反応を引き起こす作品だが、ネガティブな反応であっても強烈な反応が起きれば、見ている人はそこからその映画について考えざるを得なくなる。なぜこんなに不愉快な思いをしなければいけないのかと。そして、それがここに描かれているエゴイズムのせいだと気づくのだ。この作品の登場人物たちが振りまくエゴは見ている人のエゴとぶつかる。そして、その衝突が不愉快さを感じさせるのである。つまり、ここに描かれたエゴを見つめることは自分自身のエゴを見つめることにつながる。
さすがにこの作品に出てくる人たちのような強烈なエゴを持っている人というのはなかなかいないから、現実には「こんな人たちがいなくてよかった」と思うわけだが、そのようにしてみている人たちに何らかのアクションを起こさせるというのがこの作品の力であると思う。すごく不愉快なのに、なぜか見るのをやめようという気にはならないのはその辺りに理由があるのではないか。
そして、もうひとつこの映画が優れていると思える点は、たくさんの人が登場するシーンの巧みさである。軍隊が町にやってきたその歓迎パーティのシーン、その会場には兵士と女工たちでごった返している。フォアマンは最初にそこにいる人々の表情を一人ずつ捉える。そのショットは遠くからズームで覗き見たような映像であり、映る人々の表情が自然であるために、まるで実際のパーティーを覗き見たような気になってくる。実際にこれだけの人(100人近くいるように見える)を同時に演技させ、それをロングで狙ったのだとは考えがたいが、そうなのではないかと思わせるような映像でありつなぎ方をしているのだ。
それをみてホーっと感心する。ほかのシーンにもドキュメンタリじみたリアリティがあふれており、いわゆるドキュメンタリータッチとは違う臨場感がある。このような技術的な確かさがあるからこそ『カッコーの巣の上で』や『アマデウス』という作品を作ることができたのだろう。『アマデウス』を見たのはずいぶん前のことだが、評判のいいディレクターズカットでも見てみようかと思った。