痴人の愛
2007/4/30
Og Human Bondage
1934年,アメリカ,82分
- 監督
- ジョン・クロムウェル
- 原作
- サマセット・モーム
- 脚本
- レスター・コーエン
- 撮影
- ヘンリー・ジェラード
- 音楽
- マックス・スタイナー
- 出演
- レスリー・ハワード
- ベティ・デイヴィス
- フランシス・ディー
- ケイ・ジョンソン
- レジナルド・デニー
パリで画家を目指していた足の悪いフィリップは才能がないと断言され、医者を目指すためロンドンに渡る。そこで美人のウェイトレス、ミルドレッドに出会い、彼女の夢中になるが、彼女は思わせぶりなばかりでなかなか彼を相手にしようとせず…
サマセット・モームの「人間の絆」の一部を映画化。ベティ・デイヴィスが徹底した悪女を演じた演技が話題となり、映画の演技に革命的な変化をもたらしたとも評された。
男を利用して生き抜こうという女と、そんな女に翻弄される男、長い小説であるサマセット・モームの「人間の絆」の中でも強烈な印象を残す悪女ミルドレッドを見事に映画化したこの作品は、確かに谷崎の「痴人の愛」とどこか重なるところがある。谷崎の「痴人の愛」が書かれたのはこの作品の10年ほど前のことで、作品として話題にもなったから、日本の配給会社がこのような邦題をつけたのだろう。今では谷崎の「痴人の愛」も数本の映画が作られているからなんとも紛らわしいが、内容を表現する邦題としては優れたものだったという気はする。
それはともかく、この作品はやはりミルドレッドという人物像が興味深い。ミルドレッドはフィリップの相手もしながら、中年の男とも付き合い、最終的にはその男と結婚するといってフィリップを振る。しかし数年後、ミルドレッドは妊娠してフィリップの前に現れ、実はその男には妻子がいたということがわかる。フィリップは今付き合っている女性を捨ててまでミルドレッドを救おうとするが、ミルドレッドはまたも態度を豹変させ、フィリップにつらく当たるのだ。
このミルドレッドの感情はいったいなんなのだろうか。彼女はフィリップに愛情を持っていないわけではない、というよりは彼を心底から愛しているのだ。だからこそ、彼の人生を自分のような女のために駄目にしてはいけないと思っていつも彼が自分の下を去るように仕向ける。肯定的に見ればそう考えることができるのではないか。それでも彼女は本当につらくなったときにはフィリップに頼るしかなく、そんな自分の弱さに対する怒りをフィリップにぶつけて、結果的にフィリップの人生も自分の人生もめちゃくちゃにしてしまうのだ。
あるいは、否定的に見れば彼女はただ自堕落な女なのだ。常に利用できるものは利用し、他人の人生をめちゃくちゃにしようとかまわない。ただ自分の欲望のままに生き、フィリップの人生などまったく省みていないだけだと考えることもできる。しかし、彼女の行動を見ると、どうしてもそうではないように思えてしまう。たとえば、彼女がフィリップに怒りをぶつけ、彼の部屋をめちゃくちゃにするシーンで彼女はフィリップに送られてきた為替を燃やす。彼女が自分のことだけ考えていたのなら、それを金に買えて自分のものにすることを考えるはずだが、彼女は怒りに任せてそれを燃やすのだ。
そして、当時話題になったようにそのミルドレッドを演じたベティ・デイヴィスの演技は確かに見事だ。高慢ちきな女、媚びるような態度、相手を人とも思わないような行動、そんな悪女らしい悪女を見事に演じきっている。これが革新的と考えられたのは、そのような役柄がこれまで映画には決して登場しない役立ったからだろう。今までは悪女といっても男を誘惑する妖婦のような存在であり、そこには常に妖艶さがあったのだ。しかしこのミルドレッドには妖艶さもない完全なる悪女である。当時、女優には役のイメージが付きまとった。だから、誰もこのような役をやりたがらなかっただろう。それは同じ年に撮られた『或る夜の出来事』でわがままな女を演じたクローデット・コルベールと同じ状況である。しかし、ベティ・デイヴィスはその悪女の仮面の裏にある真情までを演じきり、新たな女性像を打ち出した。そこが革命的なのだ。
この1934年という年は、こうして映画が描く人物像の幅が広がった年なのかもしれない。ハリウッドの黄金時代といわれる1930年代は、同時にスターの時代でもあったが、スターというものがサイレンと時代から続くいわゆるスターのイメージ一辺倒のものから、さまざまな役柄を演じる演技者としてのイメージに変わりつつあった時代なのかもしれない。スターがただ映っているだけで客を呼べる時代は終わり、スターはスターとしての表現をしなければ演技者としてスターであり続けられない、映画のトーキー化はそのような変化ももたらしたのだ。