モーツァルトとクジラ
2007/6/30
Mozart and the Whale
2004年,アメリカ,94分
- 監督
- ペッター・ネス
- 脚本
- ロン・バス
- 撮影
- スヴァイアン・クローヴェル
- 音楽
- デボラ・ルーリー
- 出演
- ジョシュ・ハートネット
- ラダ・ミッチェル
- ゲイリー・コール
- シーラ・ケリー
- エリカ・リーセン
タクシー運転手のドナルドは無線を聞きながら地図を思い浮かべ、また事故を起こしてしまう。何も言わずにその場を立ち去った彼は自閉症の人たちの集会へ。彼自身もアスペルガー症候群という自閉症の一種でその集会のリーダーだった。その日、その集会にイザベルという新たなメンバーがやってくるが…
実在のアスペルガー症候群の男女のエピソードを『レイン・マン』のロン・バスが脚本化、スウェーデン人監督ペッター・ネスが監督した。
ドナルドのようなひとつの能力が人並みはずれて優れているが、それ以外は社会に適応できないというのは、自閉症と言われてイメージするパターンのひとつとしてある。あるいはグレゴリーのような感じ(言葉では表現しにくいが、相手を見ることがなかったり、極端な行動をとったりするという感じ)の症状も自閉症というイメージに合致する。しかし、イザベルはほとんどのときは普通の人と変わらない。ただ突然突飛な行動をしたり、ずけずけとものを言ったりするだけで、自閉症らしいと言えるのは金属がぶつかり合う音を聞いたときに起きる発作くらいに感じられる。
しかし、自閉症と言うのはなにを自閉症と言うのかが難しいものだろう。一見普通に見え、普通に社会の中で生活していても、自閉症的な傾向を持つ人はいるし、その多くがアスペルガー症候群だという。アスペルガー症候群というのは知的障害を持たない自閉症と言われ、健常者との線引きは非常に難しいと言われる。時に非常に知的能力が高い場合があり、一説にはアインシュタインもアスペルガー症候群だったとも言われるのだ。
私もこの作品を見てアスペルガー症候群について調べてみたわけだが、その結果からこの作品を見てみると、ドナルドは知的能力は非常に高く、社会性は非常に低い典型的なアスペルガー症患者だと言えるが、イザベルは知的能力はごく普通(健常者の普通)だが、社会性にやや問題がある軽度のアスペルガー症患者だと言えよう。しかも、彼女の場合、定期的に精神科医にかかっているようだから、それで症状が緩和されていると言うこともあるのだろう。
彼女は自分のアスペルガー症候群と健常者のボーダーにいるという立場を生かして、ドナルドを健常者の社会に引き込もうとする。それはドナルドにとっては苦痛を伴うが、彼の持つ能力を発揮し、よりよい生活を手に入れるためには必要なことだ。そして、ドナルドはそのように健常者の社会に溶け込むことを実は望み、ちゃんとした職を手にしたことを喜んだ。
しかし、そこでイザベルはドナルドが「普通になりたい」と思っていることを不満に思うのだ。このあたりからイザベルの心理がだんだん読めなくなってくる。彼女の行動はエキセントリックで突飛に見え、予測がつかない。彼女の内なる感情をわれわれは理解できないのだ。だからここでこの映画はわからないものになってしまう。
しかし、このイザベルの行動は私たちの誰もが持つ矛盾した気持ち、二律背反の欲求の発露ではないかとも思える。私たちはその矛盾や二律背反を心の中で整理し、どのような感情を表に出し、どのように行動するかを決断しているのだが、彼女はそのような整理や決断をする前にいきなり行動してしまうのだろう。だから、彼女の行動は矛盾し、人々を当惑させる。これこそが彼女が抱える困難であり、ドナルドが理解しなければならない彼女の姿なのだ。
アスペルガー症候群でなければ、このようにして彼らの心のあり方を想像してみても、それを理解することは本当には出来ないだろう。だからイザベルにはドナルドが必要であり、ドナルドにはイザベルが必要なのだ。私たちにわかるのはそこまでだし、そこにとどめたのはこの映画のよい点でもある。それによって作品としてはどうも腑に落ちない感じになってしまったが、嘘やまやかしで彼らのことをわかったようにさせるよりはこの方がよかったのだと思う。
この「?」が残るような終わり方によって私も自閉症やアスペルガー症候群について調べようと言う気になったのだし、少しは彼らのことを理解し、彼らの心を想像することが出来た気がする。
自閉症と言うのは、病気とはいえ、それを抱えながら社会の中で生きていかねばならないものだ。それならば、周囲の人が想像力を働かせて、彼らと共存できるようにすることが重要なのだろう。