ダーウィンの悪夢
2007/7/14
Darwin's Nightmare
2004年,オーストリー=ベルギー=フランス,112分
- 監督
- フーベルト・ザウパー
- 脚本
- フーベルト・ザウパー
- 撮影
- フーベルト・ザウパー
- 出演
- ドキュメンタリー
世界第2の湖ビクトリア湖、その湖では今肉食の淡水魚ナイルパーチの一大漁場となっている。半世紀ほど前に放流されたこの魚はヨーロッパや日本に輸出され、タンザニアに大きな雇用と産業を生み出しているのだが…
日本でも広く見られる“ナイルパーチ”の功罪をアフリカの貧困に絡ませて描いたドキュメンタリー。考えるべき事はたくさん出てくるが、手法としては?がつく感じ。
なんだかこれは非常にもやもやする映画だ。まず内容面から言ってナイルパーチという魚はヨーロッパや日本に輸出されることで現地で雇用を生み出し、漁師にも収入を保証し、その地の人々に生きる糧をもたらしている。しかし同時に何の保障もない漁師たちの生活は危険と隣りあわせで多くの漁師がワニに襲われるなどして死ぬ。そして、産業が生まれ雇用が生まれてもそれによってそこに住む人々が一様に豊かになるわけではなく、そこに貧富の差が生まれ、裕福な工場主と少しの食べ物をめぐって奪い合いになるストリートチルドレンが存在するようになる。
これはナイルパーチが間違いなくアフリカの搾取の形のひとつであることを意味するが、仮にナイルパーチを買うことをやめれば彼らはたちまちに飢える。しかもナイルパーチは外部からもたらされた肉食魚であり、“ダーウィンの箱庭”と呼ばれたビクトリア湖の生態系を破壊するのだ。
そして、さらにその輸送機が武器を密輸しているという噂も取りざたされる。この部分は眉唾ではあるが。
私たちは一体何をすればよいのか。そこがまずもやもやする。巨視的な視点で考えると、現地に資本を投下し、現地の人を雇ってナイルパーチを捕まえ、加工し、輸出するシステムを作るべきだ。ビクトリア湖の環境にも配慮するならば、ある程度の範囲を囲い込んで、その中でナイルパーチを繁殖させ、それ以外の部分からはナイルパーチを駆除していく。それによって継続的な産業として成立すると同時に環境保護への第一歩も踏み出せる。そして、雇用を生み、労働環境を改善し、消費者にも安全な商品を供給でき、武器の密輸も防ぐことができる。
しかし、もちろんそんなことは一市民ができることではないし、果たしてこれが投資対利益に見合った資本投下なのかは判断できない。だから個人として何ができるかということでまたもやもやする。とりあえず思うのはナイルパーチは食べたほうがいいということだ。功罪あるとはいえ、この映画を見る限りナイルパーチの消費はタンザニアの人々に利益をもたらしているのだ。そして同時に別のやり方で彼らを支援したい。アフリカは先進国といわれる国々によってずたずたにされた場所である。私たちは過去が残したその負債を少しずつでも返していかなければならないのだ。
彼らに環境保護を考えろなどという気にはまったくならない。環境なんてのは先進国の人が勝手に考えることであり、アフリカ人はそれが利益を生むなら、さらにナイルパーチを繁殖させたっていい。
この辺りに、この映画の作品としてもやもやがある。結局この監督は先進国からやってきて、アフリカ人の悲惨な日常を映して何が言いたいのか。この悲惨さはアフリカのどこにでも存在しているものなわけで、それとナイルパーチがどのような関係にあるかはまったく明らかにならない。ただ、“ダーウィンの箱庭”を破壊する巨大魚をセンセーショナルに取り上げようとしただけの話で、それがアフリカの現実とどのようにかかわっているのかを描いてはいない。ここに出てくる人たちが言うようにタンザニアは今平和だ。彼らの生活は少しずつだがよくなりつつある。今必要なのは、根拠のない噂や絵空事の環境問題で彼らを糾弾することではなく、周辺の戦火が彼らに及ぶことを防ぐことなのではないか。このドキュメンタリーの問題はその被写体となる人々のために作られたものではなく、あくまでも作り手の側の視点で作られ続けていることだ。弓を持って軽微に当たる夜警の男性を繰り返し登場させ、語らせるのもそこに意図が見え見えでなんともいやな気持ちになる。
題材はいいが、それに対して真摯に向き合っていない製作者の姿勢がせっかくの作品を台無しにしてしまったのではなかろうか。