更新情報
上映中作品
もっと見る
データベース
 
現在の特集
サイト内検索
メルマガ登録・解除
 
関連商品
ベストセラー

S21 クメール・ルージュの虐殺者たち

★★★--

2007/7/19
S21, La Machine de Mort Khmere Rouge
2003年,フランス=カンボジア,100分

監督
リティー・パニュ
脚本
リティー・パニュ
撮影
プラム・メサ
リティー・パニュ
音楽
マルク・マルダー
出演
ドキュメンタリー
preview
  現在のカンボジア、農村に暮らすフイは70年代に行われたジェノサイドの実行者の一人だった。そのジェノサイドが行われたのは政治犯の収容施設で、そこにフイをはじめとする元看守たちと、生き残りであるナットらが集まり、当時の話をする。
  1970年代、革命により政権を勝ち取ったクメール・ルージュは200万人もの人々を殺害したといわれる。“政治犯”という名の下に罪のない人々が次々と殺されていく様を元看守たちが語る。
review

 元看守たちと会い、その証言をとる主導者のナットは画家で、彼は指導者の肖像画を描くことで権力側に役立ち、生き残った。彼は収容所の悲惨な現実を絵に描き、石の床の上にびっしりと足かせをかけられて寝かされ、1日にスプーン2杯のスープしか与えられない生活とも呼べない生活を人々に強いた看守たちの心理を追究する。 そして、もうひとりの生き残りであるチャムの調書から、彼が罪のない60人もの人々を政治犯として告発せずに入られなかった拷問の凄まじさを告発する。
  元看守たちは、上からの命令で仕方なかった、やらなければ自分が殺されていたという言葉を繰り返し、“組織(アンカー)”を絶対視して、無表情に応対する。それはどうしてもナチスドイツのジェノサイドを思い出させ、そのジェノサイドの張本人として戦後捕まったアイヒマンが自分は組織の歯車に過ぎなかったと証言したことを思い出させる。確かにこの看守たちもアイヒマンも歯車ではあっただろうし、命令に背けば殺されただろう。そして、そのような境遇におかれたのも完全な自由意志ではなく、どこかで欺瞞や強制があったのだろう。その意味では彼らが言うように彼ら自身も犠牲者としての一面もある。
  しかし、それによって自分自身を正当化するのは間違っている。彼らは犠牲者である以上に加害者であり、犠牲者である自分を哀れむよりも、加害者である自分を糾弾し、自分が殺した人々に謝罪し、心からわびなければならないはずだ。彼らはその悲惨な経験を思い出すことを拒否し、死人のように生きている。彼らは何事にも無感動で、無表情であり、そのために彼らの証言は退屈だ。彼らの言葉は平板で実質的にはなにも語っていないのだ。

 この作品はそんな彼らに、当時を再現させることによって語らせる。彼らの言葉に頼るのではなく、彼らが教え込まされ、20年以上がたっても記憶しているその行動をさせることで、彼らの体に語らせるのだ。彼らは細かい部分まで忠実に当時のやり方を再現し、それによってそのことがどれだけ彼らの心に深く刻み込まれているか、それをつまびらかに見せる。長いワンカットで捉えられたその行動はリアルで苦しい。その情景はどうしてもアウシュビッツを思い出させ、『SHOAH』を思い出させる。なぜ人はこのようなジェノサイドを繰り返すのか、当然そのことを考えずにはいられない。
  結局問題は「考えないこと」なのだ。権力は自分たちの道具に考えさせないように仕向ける。考えなければ、自分がやっていることに疑問を覚えないし、疑問を覚えなければなんだってやる。元看守たちはその権力の目論見にまんまとはまり、殺人マシーンと化した。そして、その「考えない」習慣はそれが終わっても何十年も続き、その何十年間彼らは空っぽな箱のようにして過ごしてきたはずだ。この作品の最後には元看守たちのうちの何人かは目を潤ませ、何かを考え始めているような表情を見せる。
  彼らは考え、自分自身から奪われたものと、自分が人から奪ったものについて考えなければならない。それはおそらく地獄の苦しみではあるが、そうしなければ何も救われないし、何も変わらない。そうしても何も救われないし、何も変わらないかもしれないが、少なくとも、このような映画が出来、人々に何かが伝わる。それで十分ではないけれど、私たちが想像できるのはその程度のことだ。
  われわれは無力である。
  しかし、諦めてはいけない。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: フランス

ホーム | このサイトについて | 原稿依頼 | 広告掲載 | お問い合わせ