イラクのかけら
2007/7/21
Iraq in Fragments
2006年,アメリカ=イラク,94分
- 監督
- ジェイムズ・ロングリー
- 撮影
- ジェイムズ・ロングリー
- 音楽
- ジェイムズ・ロングリー
- 出演
パグダッドに住む11歳の少年ムハマドは工場で働きながら学校に通う。ムハマドは昔は街が美しかったが今は何もかもが怖いという。親方は親切にしてくれるが、ぶつことあるし、学校では4年間も1年生のまま進級できない。
このバグダッドのエピソードに加え、南部のシーア派地域、北部のクルド人自治区の3エピソードで構成されるドキュメンタリー。NHKハイビジョンで「引き裂かれた祖国~イラク・悲しみと憎悪の間で~」という題名で放送された。
このドキュメンタリーがアメリカ占領下のイラクの現実を描いていることは間違いない。まず印象的なのはムハマドが何もかもが怖いと言うことだ。“恐怖”というのは常に憎悪と暴力の源泉である。アメリカがムハマドの心に恐怖を植えつけたということは、イラクの悲劇が増幅されてしまったこの証しであるように思える。例え、このあと平和なバグダッドが戻ったとしても、ムハマドの恐怖は心の奥でくすぶり、いつか爆発するときを待っている。もちろん、ずっと平和が続けばそれは爆発することなく、ほかの事へのエネルギーとして使われるのかもしれない。
しかし、次のエピソードを見ると、イラクにはまだまだ紛争の火種がたくさん残っている。米軍が撤退すれば、スンニ派とシーア派の争いは激化し、それが武力衝突になる可能性も決して低くはない。その時ムハマドが武器を取らないとどうしていえるだろうか。そして、ムハマドはバグダッドに暮らす貧しい子供たちのひとりに過ぎないのだ。貧しく、恐怖を抱いた少年たちを利用しようと思う人間がいれば、彼らはあっという間に少年兵になってしまう。そんな悲惨な可能性が、ここには見えてしまうのだ。
2つ目のエピソードは南部のシーア派地域の宗教指導者に迫ったものだが、これは今ひとつリアリティがない。彼らの近くまでは行っているが、その内部にまでは迫れていないと言う印象だ。もちろん、彼らはアメリカの当地に強く反発しており、アメリカのジャーナリストであるジェイムズ・ロングリーが彼らの内部にまで入る込むことは難しいし、危険だ。彼は指導者の一人に渡りをつけたけれども、彼からリアルな言葉を引き出すことが出来なかった。そのためこのエピソードはニュース番組とあまり変わらない、退屈なものになってしまった。ただ、最後にその町の老人が「彼らが次のサダムになるだけだ」と語った言葉にはリアリティがあった。
3つ目のエピソードには生活に根ざしたリアリティがある。フセイン政権下で迫害され続けてきたクルド人の希望と現実、勉強して医者になりたいと言う少年は、しかし生きていくために働かねばならないと言う現実も抱える。選挙は彼らの希望だが、投票所は混乱し、文字が読めない人もたくさんいる。しかし、老人が言うように、クルド人は有名になった。以前は見えない人々だったのが、権利を主張しうる民族として世界の表舞台に立てるようになったのだ。これは大きな前進であり、まだまだ困難は多いだろうが、希望もある。
ここで感じるのは、彼らの誰もが自分たちこそが(宗教的に)絶対に正しいと信じていることだ。遠く日本から見るわれわれには、彼らの信仰の違いは今ひとつ見えてこないのだけれど、彼らはそれを信じ、そのために戦う。シーア派は自爆テロという手段を使い、クルド人はアメリカを招き入れることで、自分たちを勝利に導こうとする。同じ神を信じ、同じ神のために戦っているはずなのに、どうしてそのようなことになってしまうのか、イスラームとは寛容の宗教であるはずなのに、どうしてそんなことになってしまうのか、それが私の中ではずっと疑問としてあり、それはこの作品を見てもまったく解決されない。
ここで明らかになるのは、イラクの人たちは誰もアメリカを歓迎していないということだ。しかし、それはアメリカがいなくなればイラクがよくなるということではなく、アメリカが嫌なのだ。どうもイラクの情勢は完全な袋小路に入っている。アメリカがいれば、アメリカに対する攻撃は続くし、アメリカがいなくなれば、今度は内部の対立が激化する。そんなイラクはどうしたら救われるのか、やはりクルド人の老人が言うように、イラクは3つに別れるしか道はないのだろうか。
もうひとつ不満なのは、ここに女性の姿がほとんど見えないということだ。取り上げられるのは少年たちだけ出し、女性の言葉はまったく聴かれない。もちろん外国のジャーナリストが女性に近づくというのは難しいのだろうが、女性たちこそ真に迫害されたものであり、今もまだ迫害されているかもしれない人々だ。その女性の姿を描くことなく、イラクの現状の全体像はつかめないだろう。この作品は“Fragments(断片)”であり、全体ではないわけだが、女性が登場しないことによって、結局この作品自体が断片に過ぎず、未完成のものだという印象は否めないものになっている。