風と共に去りぬ
2007/7/23
Gone with the Wind
1939年,アメリカ,231分
- 監督
- ヴィクター・フレミング
- 原作
- マーガレット・ミッチェル
- 脚本
- シドニー・ハワード
- 撮影
- アーネスト・ホーラー
- レイ・レナハン
- 音楽
- マックス・スタイナー
- 出演
- ヴィヴィアン・リー
- クラーク・ゲイブル
- レスリー・ハワード
- オリヴィア・デ・ハヴィランド
- トーマス・ミッチェル
- ハティ・マクダニエル
- ジェーン・ダーウェル
南北戦争開戦間近のジョージア、農園の娘スカーレットは周囲の男からちやほやされるが、心を寄せるアシュレーがメラニーと結婚すると聞いて憤慨し、メラニーの兄のチャールズと結婚する。戦争が本格化するとチャールズは戦死、アシュレーの帰りを待つメラニーとアトランタで暮らすが、そのアトランタにも戦火が迫っていた…
いわずと知れた名作は、4時間に迫る上映時間とさまざまなエピソードによって映画史に名を残すが、内容のほうは必ずしも万人に受けるという内容ではない。
この映画を語る上ではそれにまつわるさまざまなエピソードを省くことはできない。まず、この作品はそもそもその原作が世界的なベストセラーで、それを独立映画制作者であるデヴィッド・セルズニックが当時としては破格の5万ドルで買った。さらに、レット・バトラー役の俳優として原作者からクラーク・ゲイブルを使うことを求められ、セルズニックはMGMの専属俳優だったゲイブルを使うためにMGMに世界配給権を譲り、純益の50%を支払う契約を結んだ。
さらに、スカーレット・オハラを演じる女優選びは最初さまざまな女優が候補に上がったが、これをスター映画にしたくなかったセルズニックは一般オーディションも実施したためそう応募者数は1400人に上り、“スカーレット・フィーバー”と呼ばれる全米を巻き込む騒動になった。最終的には恋人のローレンス・オリヴィエを追ってイギリスからやってきたアメリカでは無名のヴィヴィアン・リーが抜擢されることとなったが、この騒動の宣伝効果は絶大なものだった。今ではポスト・プロダクション段階でのさまざまな宣伝戦略は当たり前のことだが、映画史的に見るとこの作品がおそらく最初の作品だったのではないだろうか。
さらに脚本にはピューリッツァー賞受賞のシドニー・ハワードを起用するが、長すぎるシナリオとヘイズ・オフィスなどからの抗議によって書き直しを余儀なくされ、最終的には作家のスコット・フィッツジェラルドらも参加して撮影をしながらの脚本の書き直しが行われた。
そして監督は当初ジョージ・キューカーが予定されていたが、セルズニックとの意見の相違やクラーク・ゲイブルとの不和から『オズの魔法使い』を撮影中だったビクター・フレミングに交代、『オズの魔法使い』はキング・ヴィダーが監督をすることになった。しかし、このフレミングは撮影が進むにつれヴィヴィアン・リーと映画の方向性で対立するようになり一時健康を害してサム・ウッドに監督を交代、さらに撮影期間短縮のためセルズニックは5つの撮影班を編成して、それぞれに監督をつけたため最終的には8人もの監督がかかわることとなった。
撮影は『キング・コング』などのセットを燃やして撮影されたことで有名な「アトランタの炎上」のシーンから始まり、ほとんど休みなしで4ヶ月間続いた。さらに、当時のカラー撮影は莫大な光量を必要としたため、想像を超えるほど過酷な現場だったという。
そのカラー撮影は、当時まだ完成したとは言い切れないテクニカラーで撮影された。この技法はプリズムによって光を赤、青、黄の三原色に分割して、それぞれをフィルムに焼き付けて現像し、ポジにする際にこれをあわせるというもので、この作品は撮影のために50万フィート(上映時間にして92時間)ものフィルムを使った。
そして、390万ドルの制作費と42万ドルの広告費をかけられた作品は1939年の12月15日にアトランタで公開され、公開第1週だけで100万ドルの興行収入を記録、イギリスでは3年にわたってロングラン上映され、現在までの興行収入は世界中で4億ドルに上り、観客動員数は約20億人といわれる。
アカデミー賞では13部門にノミネートされ作品賞、監督賞など8部門を受賞。ハティ・マクダニエルは黒人の俳優として初めてオスカーを受賞(助演女優賞、オリヴィア・デ・ハヴィランドと同時受賞)した。また、授賞式では、ロサンゼルスタイムズが受賞前に結果を発表してしまうという事件が起き、それ以後は発表に密封された封筒が使われるようになった。さらに、作品賞のオスカー像は99年に競売に出され、マイケル・ジャクソンが150万ドルで落札、マイケル・ジャクソンは「この作品のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」と語った。
日本では戦後の1952年に公開されて、こちらも大ヒットを記録、1977年には宝塚歌劇団がミュージカル化して、現在まで繰り返し上映される代表作となっている。
これらのエピソードのすべてが、この作品のすごさを語っている。巨額の費用と、セルズニックというプロデューサの存在感、世界市場へのセールスなど、現在のハリウッド映画(いわゆるブロックバスター映画)の基本的な形がすべてこの作品にあるのだ。映画史の中にはその後の映画のあり方を決定付けた作品がいくつかあるが、この作品もそのひとつということができるだろう。
エピソードだけで、やたらと長くなってしまったが、この作品については、作品の中身よりも、それに付帯する出来事のほうに語るべきことが多い。それもこの映画がブロックバスター映画の元祖だといわれるゆえんだと思うが、4時間にもわたる映画だから、もちろん内容面でもいうべきことはある。
この作品を見始めてまず思ったのは、これがグリフィスの『國民の創生』とどこか似通っているということだ。もちろんその最大の要因は南北戦争をモチーフにしているということであり、ヴィヴィアン・リーがどこかでリリアン・ギッシュを思わせるのだ。ただ、物語が進むと、スカーレット・オハラのキャラクターが立ち、その印象は拭われる。
このスカーレット・オハラというキャラクターは非常に不思議な魅力を持つキャラクターだ。自分勝手で不安定で、とても共感できる人物ではないのだが、自立心旺盛でカリスマがあり力強い。結局この作品は4時間という長い時間をかけてスカーレット・オハラという人物の複雑さを描き、ヴィヴィアン・リーがそれを見事演じた作品といっていいだろう。彼女の周りにいるわかりやすく単純な人物たちのほうが共感するのは簡単だが、このような人物をじっくりと描いたということにこの作品の意義があるのだろう。この作品が大ヒットした要因はスカーレット・オハラにあるのではなく、ヴィヴィアン・リーにあるのだろうが、このような人物が主役になりえたというのは面白い。当時の人々はスカーレットをどう見ていたのだろうか。
4時間という長い時間の中には、時に引き込まれる瞬間もあり、驚いたりすることもあったが、全体としては冗長という印象は否めない。長すぎで、ここのシーンやエピソードの印象は薄れ、全体的にはなんだかぼんやりした映画、結末を見てもなんだかよくわからない物語というイメージになってしまう。特に問題だと思うのは、リアリティの欠如だ。もちろん当時のカラー映画ではリアリティに限界があると思うが、肝心の「アトランタの炎上」のシーンの迫力のなさ、そして負傷者たちが運び込まれるシーンの生々しさの欠如からはどうしてもハリウッド映画の作り物じみた部分を感じずにはいられない。とにかく金をかけて、負傷者でびっしり埋め尽くされた広場を写し、そこには迫力があったが、個々の負傷者の迫力、戦争にむごさを伝えるにはいたっていない。
黒人の問題に関してもほとんど言及されていないし、これは結局娯楽映画なのだ。単純な娯楽映画としては4時間はやはり長いし、インターミッションがあるとは言ってもお尻も痛くなる。確かに映画史に残る名作だが、一度見れば十分だろう。