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母たちの村

★★★--

2007/7/27
Moolaade
2004年,フランス=セネガル,124分

監督
ウスマン・センベーヌ
脚本
ウスマン・センベーヌ
撮影
ドミニク・ジャンティ
音楽
ボンカナ・マイガ
出演
ファトゥマタ・クリバリ
マイムナ・エレーヌ・ジャラ
サリマタ・トラオレ
アミナダ・ダオ
ドミニク・T・ゼイダ
preview
 アフリカのとある村で割礼の儀式が行われていたが、そのうちの4人の少女が儀式を逃げ出し、有力者の第二夫人であるコレのところに保護(ムーラーデ)を求めてきた。コレはムーラーデによって少女たちを守る事に決めるが、それは容易なことではなかった…
  アフリカ各地に今も残る女性の割礼(性器切除)の問題を指摘した社会派ドラマ。監督はセネガル映画の旗手で、アフリカ有数の監督であるウスマン・センベーヌ。惜しくも2007年6月に亡くなり、この作品が遺作となった。
review

 この作品が問題にしているのは伝統と近代の対立である。女性の割礼という伝統的風習を守ろうとする女性たちと、その風習が子供たちの命を危険にさらすことから拒否しようとする女性たち。前者の女性たちは男性の権威を借りて、後者の女性たちは圧倒的に弱い立場におかれる。現代の欧米的価値観になじんだ私たちにはそんな風習自体が無意味で乱暴で、即刻やめるべきものに映るわけだが、習慣あるいは因習というのは人々の体にこびりつき、それを拭うのはなかなか難しい。しかもここでは、その対立は単にその伝統を続けるかやめるかという問題だけではなく、女性たちがさまざまな知識を得ることを是とするかという問題、つまり男性と女性の地位の問題に直結する。
  近代の到来とは推し並べて女性の解放が大きくかかわっている。中国の纏足も、ヨーロッパのコルセットも、日本の着物も、女性を拘束し、社会へと出て行くのを阻害するものだった。ここで描かれる割礼はそれとは同じではないが、結局のところ男性が女性の肉体を支配していることを象徴的に示すものであり、この因習が女性を閉じ込めるひとつの手段となっている点では同じである。
  コレは自分の経験とラジオからの知識によってこの因習に疑問を抱く。これはまさしく近代的自我の目覚めであり、女性解放の第一歩である。男性はそれを防ぐためにラジオを取り上げ、それが逆に他の女性たちをコレに賛同させることになる。この結果起きる支配側と被支配側の対立は、近代的価値観から見れば被支配側に理があり、支配側から被支配側への賛同者が現れて理が勝つというのがひとつのパターンである。
  この作品はそのような近代への緩やかな移行を二項対立によってわかりやすく描いている。単純すぎるし、わかり安すぎるし、時間をかけすぎているという気はしないでもないが、それはすでに近代を越えて近代的価値観をすっかり飲み込んでしまった者からの見方だ。ここで描かれている性器切除という因習がまだアフリカに残っていることを考えると、アフリカの人々がここに描かれていることを理解するには時間と単純さが必要なのだろう。
  この女性器切除(FGM)は現在では国際的に人権侵害と認定され、亡命の理由と認めている国もある。そのようなことを知識としてアフリカの女性に広めることは必要なことだ。しかし、ここで問題になるのは、因習と人権の関係の問題である。この女性器切除のように命を危険にさらすものは人権侵害ということは容易だが、どこまでを人権侵害と呼ぶかは難しいところだと思う。われわれはこの作品を見ながらそこまで踏み込んで考える必要がある。この作品自体はそのガイドにはならないが、私たちは他から情報を得る手段があるのだから、その情報を積極的に手にし、考えなければならない。

 監督のウスマン・センベーヌは60年代から映画を撮って来たアフリカ映画の先駆者の一人で、1966年の“La Noir de...”はアフリカ初の長編映画といわれている。セネガルは1960年の“アフリカの年”に独立国となった国のひとつだから、60年代に早くも映画を作っていたというのは驚嘆に値する。10本ほどの作品を制作し、2007年に6月に亡くなってしまったが、南アフリカを中心にアフリカの映画が日本でも少しずつ見られるようになってきている今、彼の作品を見直す機会があるといいと思う。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: フランス

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