不都合な真実
2007/7/31
An Inconvenient Truth
2006年,アメリカ,96分
- 監督
- デイヴィス・グッゲンハイム
- 撮影
- デイヴィス・グッゲンハイム
- ボブ・リッチマン
- 音楽
- マイケル・ブルック
- 出演
- アル・ゴア
- ビリー・ウェスト(ナレーション)
危機的状況にある地球温暖化問題。まだまだ知識が普及していないアメリカで、温暖化対策をライフワークとする元合衆国副大統領アル・ゴアはその啓蒙のための講座を1000回以上も開いてきた。その活動はアメリカ国内にとどまらず世界中へ。
この作品は、そんなアル・ゴアの講座の模様に、彼の幼少時代の話などを挟み込んだドキュメンタリー。各界で話題を集め、アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞、アル・ゴアは再び次期大統領候補としても取りざたされるようになった。
映画の始まりは、地球温暖化についての基本知識の講義から始まる。まさかこの程度のことをアメリカ人が知らないってことはないだろうと思ってみていると、そういうわけでもないらしい。アル・ゴアいわく、アメリカ政府は都合の悪い情報を隠し、誤った情報を請い流すことで国民を混乱させ、温暖化に対する認識を誤らせているということだ。
それはもちろん、ブッシュ政権の石油業界との癒着、温暖化対策が産業界へのブレーキとして働くことへの懸念である。アル・ゴアは自分自身が学生時代から興味を持ち、議員になってからもずっとテーマにし続けてきた温暖化について、直接市民に語り始める。政府や産業界によって流布されている温暖化に対する疑問をデータによって覆し、温暖化対策が経済を停滞させるという論拠も最終的には打ち砕く。そこまで見ても、ほとんどはすでに知っていることで、本当にアメリカ人はこんなことも知らないのかという驚きは覚めないが、少なくとも問題点が簡潔に整理されていて、非常にわかりやすくはあるので、見て損はない。二酸化炭素の増加がもたらす温室化効果、極冠の氷が解けることによる太陽熱の吸収、異常気象と砂漠化といった温暖化にまつわる様々なイシューをきちんと整理して、順序だてて説明しているので、納得できる。
しかし、わかりやすすぎる。わかりやすいということは便利なことだが、わかりやすすぎるものに対しては警戒したほうがいい。わかりやすいということは、わかりやすくするために言われていることの何倍何十倍ものことを省略し、異論を切り捨て、なんらかの視点から再構成しなければならない。ここで言われていることは真実だとは思うが、それはアル・ゴアの視点から選択され、構成された真実であり、これだけが唯一の真実ではないということだ。つまり、ここで語られているのはアメリカの現政府(つまりブッシュ政権と共和党)にとって“不都合な真実”であると同時にアル・ゴアにとって“好都合な真実”だということだ。
そこには必ず彼にとって“不都合な真実”があり、それは隠されている。
映画を見るものとしてこの映画に対して警句を発したいのは、この作品のイメージの使い方だ。この作品は詳細なデータに基づいて緻密に論理を展開しているように見えて、実はイメージによって訴えている部分が非常に大きい。その際たるものは海面が6メートル上昇した場合のフロリダ、オランダ、インド、マンハッタンなどのイメージを写した映像である。これを見れば、地球温暖化によって自分が今住んでいる土地が水没するというイメージが確実に喚起される。しかし、この6メートルという数字に対しては詳しい説明はなされていないのだ。「このまま温暖化が進んだら」という仮定をする場合、データのとり方や予想の立て方によって結果には違いが出てくるのが当然だ。地球が温暖化していることは確実だが、海面が6メートル上昇することは必ずしも確実ではないのだ。にもかかわらず、この映画はそれをイメージによって観客に植え付け、それが複数ある可能性のひとつでしかないという当たり前の事実を観客が考えないように仕向ける。この作品は地球温暖化について観客に考えさせる映画であるはずなのに、イメージによって観客の思考を阻害しているのだ。これは非常に大きな問題ではないか。
また、彼の幼少時代のエピソードが挟み込まれるのも、観客のイメージ喚起のためであることは明らかだ。これによってアル・ゴアという人物を観客一人一人に近づけ、彼の原イメージを観客に共有させようと強いるのである。
そして、さらにこの作品で言っていることが多少なりとも眉唾だと思わせるのは、必要以上に登場すると思われるマック(アップル・コンピュータ)の存在だ。あまりに何度も登場するマックに違和感を覚えて調べてみたら、アル・ゴアは2003年からアップル・コンピュータの取締役なのである。
これによって彼の言っていることの真実性が歪められるわけではないが、彼はこの作品が構築しようとしているような完璧に正直な人間ではないということだ。彼にとっての真実は、数多い真実のひとつでしかない。
この作品はそのことを語っていないがためにドキュメンタリーであると言い切っていいかどうか疑念を抱く。ドキュメンタリーが真実をありのままに描くものだとしたら、ここまで一面的な真実のみを伝えるものをドキュメンタリーと読んでいいのだろうかという疑問が沸く。もし、ドキュメンタリーが事実に根ざしたひとつの見解の表明であるとするならば、これは間違いなくドキュメンタリーであり、あまりかでヒットしているドキュメンタリーのほとんどがこの範疇に含まれることを考えると、ドキュメンタリーであるといったほうがいいのかもしれない。
しかし、私にとってはこれは事実を材料にした私見であり、それはドキュメンタリーとは呼びたくない。私はドキュメンタリー映画を見るといつも「いったいドキュメンタリーとは何なのか」ということに悩む。その答えはいつまでも出ないが、この作品を見ていわゆるドキュメンタリーに対する疑念は深まった。
この作品を多くの人に見てほしいとは思うが、これはあくまで出発点であり、ここで言われていることに対して疑念を持つことから本当の思考が始まるのだと思う。