東京の英雄
2007/8/3
1935年,日本,71分
- 監督
- 清水宏
- 原作
- 源尊彦
- 脚本
- 荒田正男
- 撮影
- 野村昊
- 音楽
- 早乙女光
- 出演
- 岩田祐吉
- 吉川満子
- 藤井貢
- 桑野通子
- 三井秀男
- 突貫小僧
小学生の寛一は父親が遅くまで帰ってこないので寂しい思いをしていた。父は息子のためにも再婚を決意、寛一には弟と妹までできる。しかし、再婚直後に父の事業がいんちきであったことが発覚し、父は行方不明に、寛一は継母の春子に実のこのように育てられ…
メロドラマの名手清水宏の面目躍如という感じのドラマ。30年代は清水宏が最も活躍した時代で、70本物作品をこの10年間に撮っている。まさに脂の乗り切った時代の作品。
メロドラマとはいったいなんだろうか。ただ男女の恋愛を描いていたり、お涙頂戴の物語があればメロドラマというわけではない。メロドラマとは情緒的な、つまり湿っぽいドラマで、考えさせるよりは感覚に訴えることで観客を感動させるようなものだ。「あー、なるほど」とか「この気持ちわかる」という感想を持つものではなく、なんだかわからないけど気づいたら泣いていたというような感じのものである。このようなメロドラマが日本で最も多く作られたのは昭和30年代だろう。いわゆる「ハンカチもの」とはメロドラマの謂いで、観客はとにかく泣くためにハンカチを握り締めて客席についたのだ。
清水宏がメロドラマの名手といわれるのは、観客をそのような情緒的な感動に浸らせるのがうまいということということなのだろう。この作品でも父親の出奔をきっかけに、次々と悲劇的で情緒的な展開が次々と訪れる。まずは寛一が血のつながっていない兄弟たちを暖かく包み込み、母はその血のつながっていない息子のために(クラブで)身を粉にして働く。あっという間に時はたち、一家はそれなりの生活を手に入れ、息子ふたりは大学へ通い、娘はお嫁に行く。しかしここで簡単に幸せになれないのがメロドラマ、一家が母親のクラブ(当時は売春やどのように扱われていたし、これだけの生活をするには母はどこかのお金持ちの妾になっていたのだろうということは想像に難くない)で生計を立てていたことで、嫁入り先から返され、弟の秀雄も恋人から別れをほのめかされ、一家はばらばらになってしまうのだ。
このあたりのクラブに対する蔑視の徹底性は時代もあるだろうが、徹底的過ぎるような気もする。秀雄はもちろんのこと春子自身も自分の職業に誇りを持っていないのだ。
しかし、これこそが清水宏の名手たるゆえんだ。この過剰な蔑視によって春子と寛一という血のつながっていない親子が緊密に結びつくという展開がもたらされる。春子は自分の職業のせいで実の娘と息子が家を出ても気にせず、ただ寛一が大学を卒業し、立派な社会人となることだけに力を注ぐのだ。この自分の子供ではない子に心血を注ぐというドラマが日本人の心の琴線に触れる。血のつながった子供を愛するのは簡単だ。しかし、自分を捨てて出て行った夫の子供を愛するのは難しい。困難を越えて培われた愛は簡単に育まれる愛よりも人々の感動を誘うのだ。
そして、その後もまだまだ物語は続く、家出した秀雄と加代子はぐれて、母親との和解という困難を越えた愛が実現するかどうかが問題となる。また、父親が出奔する原因となったのと同じような事業がまた再び話題になることで寛一と父親との再会がほのめかされる。父と義理の息子の不幸な再会、父と実の息子の悲劇的な再会、それらはどこか神話を思わせるほど原物語的なステレオタイプを感じさせるが、それが複雑に組み合わされることで面白みを生む。
ラストは悲惨ではないけれど悲劇的であり、しかも同時に納得できるものである。悲劇的ではあるけれど、収まるべきところに収まったというとう安心感を与える。メロドラマは侮蔑的な意味で使われることも多い言葉だが、やはりエンターテインメントとしての力はあるということは70年以上も前の作品がこれだけの力を持って訴えてくることからも明らかだ。
清水宏はいわゆる高尚な作品を撮る監督ではなかったけれど、監督としての力量はそれこそ小津なんかと並ぶものだったということがこの作品からも伝わってくる。