TOMORROW 明日
2007/8/7
1988年,日本,105分
- 監督
- 黒木和雄
- 原作
- 井上光晴
- 脚本
- 黒木和雄
- 井上正子
- 竹内銃一郎
- 撮影
- 鈴木達夫
- 音楽
- 松村禎三
- 出演
- 桃井かおり
- 南果歩
- 仙道敦子
- 黒田アーサー
- 佐野史郎
- 長門裕之
- 殿山泰司
- なべおさみ
- 田中邦衛
1945年8月8日の長崎、わずかな青菜を売る店に長蛇の列ができ、病気で苦しむ捕虜に医者は来ない。そんな中、人々が晴れ着を着て結婚式が行われようとする家に集まる。花嫁のヤエはなかなか来ず、父、母、臨月を迎えた姉のツル子、夫になる中川は気をもむが…
原爆投下の前日の長崎を描いた井上光晴の小説『明日・1945年8月8日・長崎』の映画化で、黒木和雄の戦争レクイエム3部作と呼ばれる3作品の1作目にあたる(後のふたつは『美しい夏キリシマ』と『父と暮らせば』)。
原爆が落ちる前日の長崎、もちろん誰一人として翌日に原爆が落ち、自分たちが死ぬことなど知らない。広島については一度「新型爆弾が落ちた」と触れられるだけで、それがどれほどの威力だったのかという上方も、それが自分たちのところのところにも落ちるかもしれないという恐れもそこには存在しない。その中で繰り広げられる人々の生活、それはまったく日常生活そのものである。戦争末期という状況はあるが、それは昨日と変わらぬ今日であり、今日と変わらぬ明日がくることを当然としている日常の背景でしかない。
そんなつらい状況の中で結婚をすること、そして新しい命を産むこと、それは人々の“明日”への希望を抱かせる出来事だ。悲惨な中にあっても人々はそのような出来事の中に明日への希望を見出し、「戦争が終わったらちゃんとした結婚式を挙げる」という希望を持つ。
しかし、私たちにはそれらがすべてにむなしい希望に終わることはわかってしまっている。もちろん、ここに登場するすべての人が死ぬとは限らない。しかし、彼らの大部分は命を落とすだろうし、少なくとも被爆してこれまでとはまったく違った人生が訪れるのだ。彼らの希望とわれわれの絶望の断絶、それは悲惨な情景をまったく写すことなく、原爆の悲惨さを強烈に訴える見事な対比だ。人生に一度の晴れの日、人生に何度かあるうきうきとした気分の一日、平凡な毎日と変わらない一日、絶望を深める一日、それらの誰の人生にも訪れる一日のその次の日がいきなり奪われるという暴力、そのむごさをこれほど見事に表現している作品はなかなかない。
原爆や戦争の悲惨さを表現するとき、映像や言葉を使えば、それは容易に表現できるし、特に映像のインパクトは強く、人々の印象に残る。しかし、それを果たして本当に実感できるかどうかはわからない。悲惨な体験をした人々に対する同情の目を向けることは確かだが、そこから一歩進んで彼らの無念さを感じることができるかどうかは、その映像の質や文脈、受けての姿勢に大きく左右される。しかし、この作品の場合は前提としておかれているのが誰の人生にも訪れる一日であり、あまりにも日常的な風景なので、ここに登場する人々を自分と重ねあわせることが容易なのだ。だからそれが一瞬にして奪われる無念さも感じ取ることができる。
何時間も苦しんでやっと生まれた赤ん坊がその数時間後には熱線で焼き尽くされてしまう。もし母親だけが生き残ったら、彼女の心はどうなるのだろうか。それならむしろ共に気づくまもなく死んでしまったほうが幸せなのではないかという思いにすら至る。
この作品は原爆を生き残った人の苦しみはまったく描いていない。それは片手落ちといえば片手落ちだが、その苦しみを描いたものはいろいろある。だから、それを知るには自分で調べればいいのだ。ただ、ただ調べただけではそこにあるのは事実であり、実感は伴わない。この作品はさまざまな事実を実感を伴って理解できるようにするための映画なのだ。長崎を自分のこととして感じられるようになったとき、その事実を示す映像や文字の意味はまったく変わってくる。それは同情の対象ではなく、肉体的な痛みになるはずだ。それを見て出る言葉は「かわいそう」ではなう「痛い」になるはずだ。そのような実感を伴う理解ができなければ、人をそのことを本当に学ぶことはできない。そのようにして学ぶことができなければ、人はそれを忘れ、繰り返そうとする。
テロリストに核兵器で先制攻撃をするというとき、アメリカ政府の人々はそれで苦しむことになる人々を自分自身として思い描いたはずはない。人は残虐なことを平気でする生き物である。それは、その行為に対する創造力が欠如しているからだ。テロリストのアジトに核兵器を打ち込むのも、ホームレスの体に火をつけるのも、同じ創造力の欠如から発する行動だ。そんな創造力が欠如した人間にならないため、このような作品を見なければならないのだ。