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ベストセラー

ヒロシマモナムール(二十四時間の情事)

★★★★-

2007/8/9
Hiroshima, Mon Amour
1959年,フランス=日本,91分

監督
アラン・レネ
原作
マルグリット・デュラス
脚本
マルグリット・デュラス
撮影
サッシャ・ヴィエルニ
高橋通子
音楽
ジョヴァンニ・フスコ
ジョルジュ・ドルリュー
出演
エマニュエル・リヴァ
岡田英次
ベルナール・フレッソン
アナトール・ドーマン
preview
 ホテルの一室で肌を重ね合わせる男女、女は「広島を見た」といい、男は「見てない」という。女は映画の撮影のために広島にやってきたフランス人女優、男はフランス語の達者な建築家。女は「明日には日本をたつ」という…
  現在の広島と大戦中のヌベールが重なり合い、現在と過去、戦争と平和、喜びと苦しみ、記憶と忘却が混ざり合う。アラン・レネがマルグリット・デュラスの原作を見事に映画化。
review

 この映画の始まりは、肌を合わせる男女がする会話である。男は「君は広島を見ていない」と繰り返し言い、女は「見た」と繰り返し言う。女は街を見、人を見、博物館に3度行き、広島を見たというが、男はかたくなに「見ていない」と繰り返す。この会話はこの部分だけでは意味を成さないが、男が認識するときに感情移入をすると語るのに対し、女は「認識しただけ」だと語ることで、この会話が「見る」こと認識することの意味の違いをめぐるものだとわかる。
  この場面はこのような漠然とした疑問を投げかけたままに終わり、観客は宙ぶらりんのまま次の場面へと投げ出されるわけだが、そのとき、博物館の原爆の展示で妙に明るいBGMが流れていたことが私の頭の中では引っかかっていた。この宙ぶらりんにされた認識をめぐる議論と妙に明るいBGMはどちらもあとで意味を持ってくる。ここがこの映画が面白くもあり同時に難解でもある所以だ。
  次に展開されるのは、女が出演する映画のデモのシーンを撮影する場面である。このデモシーンは日本人がフランス語の横断幕を次々と掲げて歩き、BGMとして祭囃子が使われ、さらにそのデモに装束を着て踊りを踊る一段が混ざっているというナンセンスなものだ。このシーンは映画制作のご都合主義と日本に対する認識の薄さを示すわけだが、同時にこのナンセンスさはデモそのものがシリアスなものからお祭り的なものへと変化していることも意味しているのかもしれない。原爆が忘却されるにつれ、デモは人々の苦しい記憶を克服するためのしい行動から、日常を彩るお祭りへと姿を変えてしまったのだろうか。デモをする人々の妙に明るい表情は、そのことを考えさせる。

 次にふたりは「どーむ」というカフェで話をする。ここで女はヌベールの話を詳しくし始める。彼女が生まれ育ち、戦争が終わるまでいた町、戦争中にドイツ人の兵士を愛し、失い、非国民として非難の的になり、地下室に幽閉された町。この会話の中で男は「僕は?」と女に聞く。このとき男はヌーベルのドイツ兵として彼女と話し、この言葉を契機として女の中で過去と現在が混ざり合っていく。ヌベールの地下室で彼女を襲った狂気がここ広島でよみがえり、彼女は過去と現在の混沌の中に迷い込む。「どーむ」の窓から見える水面はローヌ川と重なり、広島の音がヌベールの風景に重なる。
  女は「愛を忘れるのが怖い」といい、男は「忘れたとき歴史は繰り返す」と語る。つまり、これは忘却をめぐる物語なのだ。男はどこかで「忘却の恐怖の物語」という言葉を発したと思う。文脈は覚えていないが、妙に私の頭に残ったその言葉はこの映画の本質を突いていると思う。この映画は忘却に対する恐怖、忘れることに対する恐れを描いた物語なのだ、愛を、苦しみを、そして原爆を忘れる。その恐ろしさがここでは語られているのだ。
  女はホテルに帰って、十数年前の苦しみを思い出し鏡の前で苦悶の表情を浮かべる。そのとき、博物館の広島の展示の背後に流れたのと同じ音楽が流れる。これによってこの瞬間に彼女が広島を「認識」したことが明らかになる。広島の意味とは苦痛や悲惨さではなく苦しみなのである。人間の、人類の、地球の苦しみ。そこにあるのは極限的な苦しみなのである。
  女はそのことに気づきながら、忘れることへの恐怖とその魅惑の間で揺れる。彼女がホテルを出、男と再び出会い、ほとんど言葉も交わさずに町をさまよう場面は、彼女の忘却との戦いを描いたものだ。愛したことを忘れる恐怖と苦しみを忘れる魅惑、その間で揺れ動いた女は最後に男を「ヒ・ロ・シ・マ」と呼ぶことで、すべてを忘れない決意を示す。ヒロシマとヒロシマの男とヌベールの男を愛と苦しみの記憶として抱え続ける決意をするのだ。

 そこで映画は終わるが、そこで投げかけられるのは、そのようにして自分の苦しみの記憶と人類の苦しみの記憶を抱え続けることに対する考察だ。われわれは苦しみを忘却するという魅惑にたびたび屈する。しかし男が言うように「忘れたとき歴史は繰り返す」のだ。失恋の苦しみを忘れることは次の恋をするために必要なことだ。たとえ再び失恋の苦しみを味わうことになろうとも、それを忘れ新たな可能性を求めるのには意味がある。しかし、原爆の苦しみを忘れ、再び軍事力を持とうとすることはまったく唾棄すべきことだ。今度は苦しむのはわれわれではないかもしれないが、歴史は繰り返し、誰かが同じ苦しみを味わうことになるのだ。
  私たちはどのようにして原爆を忘却することを防ぐことができるだろうか。女は愛する人を失った苦しみとともにヒロシマの苦しみを記憶にとどめた。私にはそれに匹敵するような苦しみの経験はない。だから人の力を借りて、想像力を働かせて、いろいろな人が搾り出す苦しみの物語を擬似的に体験することで小さな苦しみの記憶を繰り返し心に刻み付ける。それはあまりに無力だが、私たちはそのようにしてしか歴史の反復を食い止めることはできないのだ。この作品自体はそのような苦しみの記憶を擬似的に体験することにはつながらないが、そのような体験の必要性を明確に示してくれるものだ。
  原爆に限らず人々の苦しみを描いたものを見たり、読んだりすること、それはつらいけれど必要なことなのだ。苦しみと共に、そのこともしっかりと頭に刻み付けなければならない。

Database参照
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