ブラックブック
2007/8/28
Zwartboek
2006年,オランダ=ドイツ=イギリス=ベルギー,144分
- 監督
- ポール・ヴァーホーヴェン
- 原案
- ジェラルド・ソエトマン
- 脚本
- ジェラルド・ソエトマン
- ポール・ヴァーホーヴェン
- 撮影
- カール・ウォルター・リンデンローブ
- 音楽
- アン・ダッドリー
- 出演
- カリス・ファン・ハウテン
- トム・ホフマン
- セバスチャン・コッホ
- デレク・デ・リント
- ハリナ・ライン
第2次大戦中のオランダ、ユダヤ人の女性歌手ラヘルは隠れ家を空爆で失い、偶然助けてくれた男の家もドイツ軍に見つかってしまう。そこにやってきたレジスタンスの男の手引きで解放された地区に脱出しようとするが、彼女と家族を乗せた船はドイツ軍に見つかり、銃撃を受ける。
『スターシップ・トゥルーパーズ』などのポール・ヴァーホーヴェンが故国オランダに帰って撮ったシリアスドラマ。キャストもオランダ人で固め、見ごたえのある上質の作品に仕上がっている。
人間とはあまりにも愚かな生き物である。
私はこの短い一文を書くのにずいぶんとためらった。このように書くことによって、私はその愚かさから逃れてしまうような気がするのだ。私は今まさにこの瞬間、あなたは愚かであり、あなたの周りにいる人々も愚かであり、あなたが愚かだと思う人も愚かではないと思う人も愚かであり、もちろん私も愚かであるということを言っている。
しかし、それは何も語っていない。もしみなが愚かなら、愚かでないものなど存在せず、それはみなが愚かではないということになりはしないかと。
この作品を見ながら人間が愚かであると思うということは、自分は愚かではないという前提に立っていることに他ならない。私は自分自身も含めて人間はみな愚かだと書いたけれど、実際は自分も愚かなふるまいをする可能性はあるけれど、今のところは愚かではなく、人が愚かかどうかを判断できると考えているはずなのだ。しかし、そのこと自体が愚かだとも私は思うのだ。
というためらいの中で私は「人間とはあまりにも愚かな生き物である。」という一文を書いてしまった。だから、そのように書きはしたけれど、本当にそうなのか私にはわからないのだ。
少なくともいえることは、この作品が人間の愚かさというものを徹底的に描いた作品であるということだ。
この作品は、今はイスラエルで暮らすユダヤ人のラヘルの第二次大戦中の経験を描いた物語である。ラヘルは隠れ家を爆撃され、逃げ延びた家もまた狙われ、レジスタンスの手引きで脱出するが逃げる途中でドイツ軍に発見されてしまう。何とか逃げ延びたラヘルはエリスと名を変えてレジスタンス運動に加わるのだけれど、不運や裏切りが重なって運動はうまくいかない。
人間は保身のために嘘をつき、怒りに駆られて無鉄砲な行動をし、復讐心に駆られて残虐な行為をする。人間の愚かさがことをより複雑で難しくし、すべての人が出口のない深みにどんどんはまって行ってしまう。ナチも愚かだが、レジスタンスも愚かであり、ユダヤ人も愚かなのだ。そういうことはナチの正当化にもつながりかねない違和感を伴うが、みなが愚かだったことは確かだ。ここで語られているのは、誰しも自分自身の愚かさから逃れることはできないということなのだ。
映画のほうは途中からは誰が裏切り者なのかという謎解き型のサスペンスの様相を呈し、この筋運びも観客を引き込む。それがこの作品がいわゆる堅苦しい戦争ドラマとは違う点であり、さすがはハリウッドで徹底的なエンターテインメント作品を撮ってきたヴァーホーヴェンだというべきところだろう。
そして、ヴァーホーヴェンと言えばエログロの悪趣味映画というのもひとつの特色であり、その特技もこの映画には生かされている。ここでそのエログロ手法はまさに人間の愚かさを表現する手段として使われているのだ。エロというのは人間が愚かさを発揮する大きな機会である。人間の愚かさの源はその多くが欲にあり、性欲というのは理性の対極にある欲望の最たるものなのである。そしてグロとは人間の下品さの象徴であり、それは人間の愚劣さが強く発揮される瞬間なのだ。糞尿を人に浴びせかけるとき、その人は自分のもっとも愚かな部分を露わにしているのである。
ヴァーホーヴェンはエロとグロを利用して、さらに人間の愚かさを掘り下げていく。
もちろんこの作品はユダヤ人の徹底的な被害者意識に根ざしたものではある。しかし、ここではユダヤ人が善で他が悪であるとは言わず、ユダヤ人は正しくて他の人たちが愚かなのだとは決して言わない。ユダヤ人もまた人間として等しく愚かであるということを描く。ここに登場するすべての人はその愚かさを見せる。それが重要なのだ。主人公はヒーローなのではなく、ただ愚かしい戦争を生き残ったというだけなのだ。すべての人間に愚かしさを発揮させる戦争、そのような戦争の姿を描くことは戦争中であるにもかかわらず愚かしさを逃れて美談を残した人を描くより何十倍も「二度と戦争を起こしてはならない」という気持ちを起こさせる。
そして、ラストシーンも非常に印象的だ。最終的にイスラエルに暮らすことになったラヘルだが、安住の地であるはずのそこでも、サイレンが鳴り響き、武装した警備兵たちが臨戦態勢を取る。ここでもまた愚かしい戦争が始まろうとしているのだ。そして、私たちはその戦争がまだ終わっていないことを知っている。人はまたも際限なく愚かしい行動をそこでしているのだ。
ここに登場する愚かな行動の多くは目を背けたくなるようなものだ。しかし、目を背けたくなるのはそこに自分の似像を見るからである。自分の中にも潜む愚かさがそこで発揮されていることに対して目を背けたくなるのだ。重要なのはただ目をそむけるのではなく、自分がそこにいるような人間にならないよう、愚かしさを押さえ込むことだ。そのためには自分が愚かであることをまず知り、そして自分が愚かしさを発揮してしまうような状況に陥らないように気をつけるしかない。
なんとも頭の痛い話だ。