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ウリハッキョ~われらの学校

★★★★-

2007/9/1
Urihakkyo
2006年,韓国,131分

監督
キム・ミョンジュン
チョ・ウンリョン
撮影
キム・ミョンジュン
出演
北海道朝鮮小中高級学校のみなさん
preview
 2004年4月、北海道小中高級学校で入学式が行われる。日本の学校から編入してきた生徒たちは朝鮮語で行われる授業のために1年間特別授業を受ける。また、この学校は北海道唯一の朝鮮学校のため、寄宿舎があるが、そこで暮らす生徒は年々減っていた。
  韓国人のキム・ミョンジュンは彼らの生活や、生徒、先生へのインタビューを通して彼らの朝鮮、韓国、日本への想いを明らかにしていく。
review

 映画が始まってしばらくは、韓国からやってきた韓国人の監督が北海道の朝鮮学校の生活を映し、生徒や先生の話を聞く、ただそれだけの印象だ。その中で気づくのは生徒たちの多くにとって朝鮮語があくまでも外国語だということだ。特に高校1年から編入してきたという生徒は、考えながらしゃべっている様子がよくわかる。
  彼らの日常生活は日本の学生とそんなに変わらない。ただ、彼らは朝鮮語を使うということに一生懸命で、学校内では100%朝鮮語を使うということを目標に班ごとに競い合っていたりもする。それは、日本でマイノリティである彼らが自分たちの文化を保っていくために必要なマイノリティに共通の課題であるだろうが、このあたりでもまだ淡々と描いている印象がある。
  これが変わってくるのはカメラが寄宿舎に暮らす小学生たちを映し始めるあたりからだ。広い北海道に朝鮮学校が1校しかないために、遠くに暮らす子供は寄宿舎に入って学校に通うしかない。そのために朝鮮学校に通わせるのをあきらめ日本の学校に通わせる親も多いという。そんな中で1年生から寄宿舎に入れられる兄妹が登場する。学校の宝ともいえる彼らのために、学校は1年生の1年間を先生と同室で暮らさせ、彼らを本当に手厚く迎えているのだ。そして時には先生夫婦と生徒の娘がいる家に呼んだりもして、彼らはまさに家族になるのだ。
  そんな暖かさと、寄宿舎の広い食堂の一角に集まったあまり多くはない生徒たちの明るさを見て、彼らを見守ってやりたいという温かい気持ちが芽生えた。それだけでもこの作品には意味があるとも思う。朝鮮だ韓国だという国家を問題にする前に、同じ日本という土地に住む同じ人間として彼らも日本人と同じように安心して暮らすことができるべきだという当たり前のことを明確な形で意識すること、これが日本人としてこの作品をみてまず感じることだ。

 そこから先は、日本における在日朝鮮人の問題よりは、朝鮮半島の分断の問題が前面に出てくるように思える。この朝鮮学校の生徒たちも韓国人である監督も統一を強く願っているわけだが、その二者の違いもそこここに出てくる。朝鮮学校の生徒や先生の多くは故郷は韓国(にあたる場所)にありながら祖国は朝鮮(北朝鮮ということだが、あれらからしてみれば朝鮮と南朝鮮なのだ)にあると考えている。それは朝鮮はこの学校に対して支援をしてくれるけれど、韓国はしてくれないという一転に尽きる。本国の政情や思想がどうであれ、異国にいる同胞のことを思う朝鮮にこそ希望を見出すのだ。
  そして、クライマックスは高3の生徒たちが修学旅行で初めて祖国の地を踏むというところで訪れる。彼らはまず新潟に飛び、そこからマンギョンボン号で北朝鮮へと向かうのだが、韓国籍の監督はそのルートでは北朝鮮に入国できず、彼らには同行できない。そして監督が彼らの出発を撮影しようとしても拉致の問題で港に入ることもできなかった。しかし、港の反対側から撮影する監督に生徒たちは力いっぱい手を振る。ここに表れているのはまさに国家分断という悲劇であり、その理不尽さである。
  そして、監督は帰ってきた生徒たちを迎え、生徒にひとりに預けたカメラに収められた映像を見る。生徒たちは北朝鮮の人たちの暖かさ、純粋さに触れ、自分が「外国人ではない」という喜びに浸っている。彼らは北朝鮮の人はいい人ばかりだといい、彼らと同じかもしかしたら年下かもしれない兵士たちと笑って話している姿などが映し出されている。
  それは日本人である私たちの感覚とは少しずれているが、彼らにとっては本当にそうなのだろう。北朝鮮の人々にしてみれば外国でがんばっている同胞なのだから、彼らを本当に暖かく迎えるのが当然だ。

 この作品を見て本当に強く感じるのは、国家(あるいは政府)と人々との乖離である。私たちが思う北朝鮮というのはあくまで国家であり、その人々ではない。対立しているのはあくまで国家であり、人間ではないのだ。しかし現代社会では人々は国家に表象され、北朝鮮に対する批判はその人々に対しても等しく向けられてしまう。それが朝鮮学校やその生徒に対する心無い攻撃につながったりするわけだ。もちろん常識ある人々はそこまではいたらないわけだが、国家と密接にかかわるマンギョンボン号の入港には反対したりする。
  この国家と人々との関係は現代の世界が抱える最大のジレンマのひとつだろう。この作品はそのジレンマのひとつの複雑な表れ方を見事に表現しているのだ。朝鮮が分断されているのもあくまでも国家間の問題である。人々は北朝鮮の人々も韓国の人々も統一を願っているのに、国家の(北朝鮮と韓国だけでなく、アメリカやロシアや中国やもちろん日本やほかの国々も含めた)思惑によってそれは実現しないのだ。それは本当に悲しいことだ。
  この作品には暖かさがあふれている。だからこそ、この分断という悲劇の理不尽さも浮かび上がってきたのである。この作品はもともとキム・ミョンジュン監督の奥さんであるチョ・ウンリョン監督が製作していたのだが、チョ・ウンリョンさんが不慮の事故でなくなり、キム・ミョンジュンさんが後を引き継いだのだという。彼が抱えることになったその痛みもこの作品がこのようにすばらしい作品になったひとつの要素なのだろう。
  人は痛みから思いやりを学ぶを学ぶこともあれば、憎しみを抱え込むか、キム監督は痛みを決して憎しみ変えてこなかった北海道の在日朝鮮人の人々に触れることで自らの痛みから思いやりを学ぶことができたのだろう。
  私たちも彼らの痛みと暖かさを通して思いやりを学ぶことができる。

Database参照
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国別・年順: 韓国

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