ミリキタニの猫
2007/9/8
The Cats of Mirikitani
2006年,アメリカ,74分
- 監督
- リンダ・ハッテンドーフ
- 撮影
- リンダ・ハッテンドーフ
- マサ・ヨシカワ
- 音楽
- ジョエル・グッドマン
- 出演
- ジミー・ツトム・ミリキタニ
- ロジャー・シモムラ
- ジャニス・ミリキタニ
ニューヨークの街角、韓国人のデリの軒先を借りて暮らすひとりのホームレス、アーティストである彼に話しかけたリンダ・ハッテンドーフは彼がジミー・ミリキタニという日系人で、第2次大戦中に強制収容所にいたことを知る。二人は毎日会い、徐々に仲良くなっていくが、やがて2001年の9月11日が訪れる…
80歳でホームレスでアーティストであるジミー・ミリキタニを通して第2次大戦中の日系人の強制収容所に関する事実を描いたドキュメンタリー。このおじいちゃんがとてもいいキャラクターで堅苦しさがなくていい。
始まりはホームレスの爺さんが書く絵だった。彼ジミー・ミリキタニは六十数年前にいた強制収容所の絵を描き続ける。そして出身地である広島に落ちた原爆の絵も。日系人の強制収容所についてほとんど知らなかったリンダ・ハッテンドーフは彼に毎日会いに行き、会話をし、それを録画した。彼らは仲良くなり、リンダはジミーのことを気遣うようになるが、ジミーは基本的に人に頼ろうとはせず、自分の力で生きていた。
しかし、いつものようにカメラを回していたある日、高層ビルにジェット機が突っ込み、世界は変わった。そして、その事件によって吐き出された有害な煙はリンダとジミーの関係も変えた。以前は親切な韓国人店主に軒先を借りて夜露をしのぎ、昼間は公園などで絵を描いていたジミーだが、9.11による有害な煙はジミーの健康をさいなみ、リンダの家で一時的に暮らすという申し出を受け入れさせた。
映画はそこからが面白い。ジミーはリンダの家に世話になってもまったくわがままなままで遠慮というものを知らず、創作に没頭する。そんな中、リンダはいつまでもジミーを置いておく訳にも行かないと思ったのか、ジミーに社会保障を受けさせようとする。しかし、ジミーはそれをかたくなに拒絶する。その拒絶の根底にあるのはジミーの政府に対する不信感である。アメリカ市民である自分を収容所に押し込み、市民権を奪った政府をそうやすやすと赦し信用することなどできるはずはない。ジミーは戦後市民権のないまま60年以上独力で生きてきたのだ。
リンダはアメリカの代表とでも言うようにジミーに対する罪を償おうと奔走する。そして、ついにジミーの市民権が実は回復されていたということを突き止めるのだが、そのあて先人不明で届くことのなかった手紙のあて先はどこだったのかと私は思いを馳せる。戦後、半ば共生的に農場に送られ、その後も安定して生活を送ることができず流浪を続けざるを得なかった人間に向けてどのようにその通知を送ったというのか。作品ではこのことに触れていないが、ここに官僚主義の理不尽さを見る。アメリカでも日本でも官僚というのは一通りの手続きを踏んで、責任を逃れればそれでいいという官僚主義に動かされているのた私は感じた。
しかし、この作品はそのような政府に対する批判という方向には進まない。物語はジミーの収容所跡地への旅と家族との再会に向けて進んでいく。そしてその過程でジミーはアメリカを“赦す”。この結論にはなんとももやもやしたものが伴うように思うのは私だけだろうか。
ジミーは結局リンダを通してアメリカという社会を受け入れ、社会保障を受け入れたわけだが、それは果たしてアメリカを赦したということなのだろうか。ここにリンダとジミーとそれを取り巻く社会は存在しているが、“アメリカ”自体は不在なのではないか。アメリカという国家の機構は官僚主義的=無機的にジミーの市民権と社会保障を処理したに過ぎず、そこにジミーと国家との有機的なつながりは見出せない。彼はアメリカを赦したのではなく、国家不在の社会を受け入れただけなのではないか。
しかし、作品をそのまま受け止めるとジミーがアメリカを赦したかのように見える。それはおそらくリンダ監督が自分と自分を取り巻く社会がジミーに受け入れられたことで自分が代表して償おうとしてたアメリカの罪が償われたと感じたからだろう。
ここで描かれるジミーとリンダと所の周囲の人々の関係はすばらしく、それはアメリカ社会の非常にいい一面を表現していると思う。だから実際のところこの“赦し”という問題にこだわる必要はないのだろうが、この作品のように作り手の気持ちが強く伝わってくる作品では、こういう部分にこだわってしまう。
この作品は確かに事実を伝えているのだが、そこにある事実はリンダ監督によって語られた事実であり、ある種の物語であるからだ。事実が物語として語られるドキュメンタリー映画には、それが物語であることを留保する余地があったほうがよい。この作品にはその部分の意識が希薄であるような気がしてならないのだ。
ジミー・ミリキタニという人物も、リンダ・ハッテンドーフという人物も本当にすばらしいからこそ、この作品にはもっと広がる余地があるはずだ。だからこそそんな文句をつけたくなるのだ。