君とボクの虹色の世界
2007/9/22
Me and You and Everyone We Know
2005年,アメリカ,90分
- 監督
- ミランダ・ジュライ
- 脚本
- ミランダ・ジュライ
- 撮影
- チューイ・チャベス
- 音楽
- マイク・アンドリュース
- 出演
- ミランダ・ジュライ
- ジョン・ホークス
- マイルス・トンプソン
- ブランドン・ラトクリフ
- カーリー・ウェスターマン
アーティストを夢見てビデオ作品を作る高齢者タクシーの運転手クリスティーンは老人について行ったショッピングモールの靴売り場で販売員のリチャードと出会う。リチャードは妻と別れ14歳と6歳の息子達との3人暮らしを始めたばかり、リチャードが気になったクリスティーンはモーションをかけるが、なかなか伝わらず…
パフォーマンス・アーティストであるミランダ・ジュライの脚本・監督・主演作。カンヌ映画祭でカメラ・ドールを獲得、“ポスト・ソフィア・コッポラ”とも言われる。
この主人公のクリスティーンは写真を見ながらそこに映っている人物になりきって台詞をしゃべるというパフォーマンス・ビデオを製作している。その作業自体が非常に自閉的というか、コミュニケーションの不全を象徴しているように見えるが、彼女の仕事は高齢者タクシーの運転手で、その常連らしい老人とは仲良くしているようだ(とは言っても彼以外に客は登場しないが)。そのクリスティーンが靴売り場で働くリチャードに恋をして、たどたどしく彼に近づこうとするのだが、そのぎこちなさはまさに彼女のコミュニケーション不全の表れという感じだ。リチャードのほうも妻と別れ、息子達ともうまくいっていない感じで、こちらもどうもコミュニケーションに何があるように見える。
それはぎこちなさと居心地の悪さを生むわけだが、そのコミュニケーション不全こそこの映画のテーマだと思う。クリスティーンは自分のビデオを持って美術館に行くが、そこのキュレーターはクリスティーンに、この美術館の住所に作品を送ってくれという。いま手で渡せばすむことなのに、送れというのだ。
リチャードのふたりの息子はパソコンのチャットで卑猥な会話を楽しむ。特に下の息子(6歳)のロビーの言葉が相手の女性を興奮させてしまい、相手は会おうと持ちかけてくる。リチャードの同僚のアンドリューは家の前で見かけた少女ふたり(リチャードの上の息子のピーターの同級生)に声をかけ、卑猥な会話を展開し、その後も窓に変な文章を書いて張る。
これらが示しているのは顔を突き合わせていようといまいと、人間と人間がコミュニケーションを図ろうとするときには常に生じてしまう齟齬である。人間は会話をし、会うことで意思が疎通しているように考えているが、実際そこで行われるコミュニケーションとはどのようなものなのか。私達は相手のことを理解した気になっているだけで、実際には相手の考えていることなど少しもわかっていない。この作品はそのことをことさらに描くことで、通じたような気になっているコミュニケーションの危うさを示しているのではないか。
それを端的に示しているのは、クリスティーンがリチャードに会いに行きながらなかなか声をかけられず、ショッピングモールを出たところでようやく声をかけ、車までの間にちょっとした会話を交わすシーンだ。この会話の後、車で追いついたリチャードにクリスティーンは声をかけ、リチャードの車に乗り込む。しかしリチャードはそれに憤るのだ。そして「ボクは子供殺しかもしれないじゃないか」というのだ。ここで少し近づいたかのように見えた二人の関係はばっさりと断絶させられる。これはクリスティーンがリチャードの心理を推し量ることに失敗したという端的な例だ。クリスティーンの“誤解”がふたりの関係を駄目にしたわけだが、このような“誤解”がこの作品にはあふれているのだ。
そして、ここまで“誤解”ばかりが描かれると、その“誤解”こそがコミュニケーションの本質なのだといっているように思えてくるし、実際コミュニケーションはある程度まで“誤解”で成り立っている。重要なのはそのような“誤解”が常にあることを認識し、その“誤解”を前提に相手の立場に立って考えることなのだ。
この作品はこのようにコミュニケーションを描くことで現代社会の一面を見事に描いている。しかし、それでひとつの作品を描くというのはなかなか難しい。面白くはあるのだが、難しいというか、能動的に考えようとしないとただのぎこちない退屈な作品に見えてしまうのだ。もう少し観客を引き込む工夫があると、そのテーマが際立ってよかったのではないか。この作品でなぜ“ポスト・ソフィア・コッポラ”と言われるのかよくわからないが、これからが楽しみな女性監督ではある。