思い出の西幹道
2007/10/16
西干道
2007年,中国=日本,101分
- 監督
- リー・チーシアン
- 脚本
- リー・チーシアン
- リー・ウェイ
- 撮影
- ワン・ユー
- 音楽
- チャオ・リー
- 出演
- チャン・トンファン
- リー・チエ
- シェン・チアニー
- チャオ・ハイイエン
- ヤン・シンピン
1978年、中国北部の町、絵を描くのが好きな小学生のファントウと勤めている工場をサボってばかりの兄スーピンの家の向かいに北京からシュエンという娘が引っ越してくる。舞台で踊りを披露したシュエンにスーピンは惚れてしまうが、シュエンはまったく相手にしない。
中国の田舎の素朴な風景と素朴な人々、これぞ中国映画という感じの味わい深い佳作。中国第6世代の監督のひとり、リー・チーシアンの長編第2作。
中国北部の田舎町に住む純朴な兄弟、そこに北京からやってきた美しい少女、少女は踊りを見せて兄弟を魅了し、兄はいつか町を出てやろうとあこがれる。ここまでそろえば、いかにもな中国映画の舞台は完全にそろう。舞台設定も1978年と現在ではないから、その田舎町には通勤通学の足として蒸気機関車が走り、人々の格好も顔もすべてが素朴で、ノスタルジーを掻き立てるものだ。
そんな舞台装置のいかにもな中国映画だから、どうも陳腐なものになってしまいがちだけれど、このリー・チーシアンはそれをうまく食い止めて、“いい”作品に仕上げている。まずいいのは、映像だ。荒涼とした大地というのは中国北部を舞台にした映画にありがちか映像だが、ロングショットでその映像を撮り、画面いっぱいに使ってそこに人の動きを入れる。たとえば、シュエンが二人の男に絡まれ、スーピンがそれを助けるシーン、画面を横切る一本道で繰り広げられるそのシーンは一貫してロングショットで捉えられ、スーピンに追い立てられた二人組シュエンとスーピンのところから離れる。普通ならここで二人組がフレームアウトするか、カメラがシュエンとスーピンによるところだが、この作品ではこのシーンをロングで捉え続け、二人組は画面のぎりぎりまで行ったところで戻ってくる。この画面全体をうまく使った映像の作り方によって観客の注意が画面全体に及び、風景は単なる牧歌的な風景であることをやめるのだ。
また、この町は単なる田舎町ではなく、荒涼とした台地の中に工場が林立する場所でもある。牧歌的なはずの田舎町に巨大な工場がいくつも建っている。煙突からは絶えず煙が吐き出され、そのせいかはわからないが、空はいつも曇り太陽は顔を出さない。この重苦しく閉鎖的な感じはここにいる若者の未来の暗さをあらわしている。スーピンは働くのがいやだから工場に行かない“ろくでなし”ということにされているが、その工場で働いていても彼には未来がないということがわかってくると、その彼の気持ちも理解できるようになる。ファントウも意識はしていないが、このままでは自分にも未来がないということに感づいており、絵を描くということがその暗さに対する唯一の望みとなっているのだ。
そんな二人の前に現れたシュエンは北京という都会を具体的にイメージできる対象であり、それは未来の象徴でもある。だからスーピンはシュエンに固執し、ファントウはシュエンにもらった画用紙(北京の画用紙)を大事にしまいこむのだ。
そしてこの作品はさらにその北京=未来を線路の先にある場所として意識させ、たびたびその線路を映し出す。線路が消え行く地平線の先にはまだ見ぬ未来がある。閉鎖的で保守的な田舎町に嫌気が差した若者は線路の先にある未来を夢見るのだ。
さらに言えば、牧歌的なまま終わらない終盤の展開も秀逸なものがある。どんでん返しというほど驚く展開ではなく、予想の範囲は出ないのだが、それでもそこには変化がある。それは中国という国の変化とも結びついているようにも思え、何らかのメッセージを受け取ることも可能だ。
この映画はいい映画だ。中国映画が好きな人はもちろん、あまり中国映画を観たことがないという人にもお勧めできる。ただ、それなり数の中国映画を見て、それほど中国映画が好きではないという人には「またか」という感じの作品になってしまうかもしれない。しかし、まだ40代と若いこのリー・チーシアン監督は近いうちに中国を代表する監督になるかもしれないと感じさせるものがあるので、そんな人も見ておいて損はないと思う。