青い瞼
2007/10/21
Parapados Azules
2007年,メキシコ,98分
- 監督
- エルネスト・コントレラス
- 脚本
- カルロス・コントレラス
- 撮影
- トナティウ・マルティネス
- 音楽
- イナキ
- 出演
- セシリア・スアレス
- エンリケ・アレオラ
- アナ・オフェリア・ムルギア
- ティアレ・スカンダ
- ルイサ・ウェルタ
制服会社に勤めるマリナは年に一度の抽選会でリゾートへの豪華ペア旅行があたる。しかし、友達もいないマリナは一緒に行く相手も見つからずに困ってしまい、しばらくあっていない姉を誘うことにする。そんな時、元同級生だというビクトルに話しかけられるが、マリナは彼のことをまったく覚えていなかった…
孤独な男女の出会いを描いたドラマ。監督はこれが長編デビュー作となるメキシコ期待の若手監督エルネスト・コントレラス。
マリナがビクトルと旅行に行くことを決めるまでに結構な時間を割かれているが、実際この物語が展開されるのはこの決定以降のことで、それ以前は背景説明に過ぎない。マリナは姉と行くことに決めるが、夫とうまくいっていない姉は夫とふたりで旅行に行けるようマリナに旅行をあきらめさせようとする。マリナが首を縦に振らないために、姉はマリナを負け犬と呼んでふたりは喧嘩別れする。マリナがビクトルを誘ったのは、その姉とのやり取りが原因だろう。旅行の相手を探すのもそうだが、自分だって男と付き合うことぐらいできるということを姉に見せてやろうという意図があったのだ。前半部分はこのようなマリナの心情と彼女の孤独の説明であり、同時にビクトルの孤独の説明でもある。
このふたりがであったとき何が起きるか、これがこの映画のテーマである。ふたりとも一人でいることになれすぎて、人とどう接していいのかがわからない。そういう人が人と触れ合うとき、思うが侭にならないストレスにさいなまれてしまう。一人でいれば何でも自分の好きなようにできるが、誰かと一緒にいると何かを妥協しなければいられない。まだ打ち解けていないふたりならなおさらそうだ。
ふたりの初めてのデートであるピクニックのシーン、敷物を敷いて座ったふたりの間には並木で作られたトンネルがずっと奥まで続いている。これはもちろんふたりの間にある溝の深さを表しているのだろう。そしてマリナはあまり会話もせず敷物の繊維をむしる。もちろん、それはストレスを感じたときに人が気を紛らわせるためにとる行動だ。
物語としては、その距離が徐々に縮まっていくとなりそうだが、マリナにはその距離を縮めようという気があるようにすら見えず、心理的な距離は縮まらないままふたりはデートを重ね義務のように段階を踏んでいく。そしてふたりの関係が最後まで行くかという夜のダンスホールでもふたりの距離は縮まっていない(これも視覚的に表現される)。
結局ふたりは打ち解けないのだが、隣にいるということにはまったく意味がないわけではない。マリナは凍りついた固い殻をまとってビクトルのといるけれど、ビクトルの体温はわずかずつでもその固い殻を溶かしていく。殻の内側にたどり着くことはなくともその殻には凹みができ、その相手がいなくなると、その凹みは空洞となる。マリナは最終的にこれ以上近づくことの危険を察して相手を遠ざけるが、そこで始めてその空洞に気が付く。孤独な人同士がであったとき、すぐにはドラマは生まれないが、そのような過程を経て何かがわかる。
この作品を見て思い出すのはアキ・カウリスマキの作品だ。無口で不幸な二人の物語、そして孤独なもの同士が出会う物語、このふたりの主人公をマッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンが演じていれば、完全にカウリスマキの世界となるような気がする。
場所がメキシコになっても孤独で無口で不幸な二人が出会う物語がもつムードは変わらない。果たしてこのエルネスト・コントレラスがカウリスマキのようにこんな作品ばかりを撮っていくのかはわからないが、少なくともこのような作品はフィンランドでもメキシコでも作られ、日本でも受け入れられるいわば世界に普遍的な物語であるということだ。
だからこの作品もしっくり来る人には結構しっくりと来る作品だと思う。映像の使い方も上手だし、配役も絶妙、結末も微妙だが考えさせられる。映画祭という華やかな舞台にこれだけ地味で暗い作品を持ってくるというのはなかなか面白い。