カリフォルニア・ドリーミン(endless)
2007/10/23
California Dreamin' <nesfarsit>
2006年,ルーマニア,155分
- 監督
- クリスティアン・ネメスク
- 脚本
- トゥドル・ヴォイガン
- クリスティアン・ネメスク
- 撮影
- リヴィウ・マルギダン
- 出演
- アーマンド・アサンテ
- ラスヴァン・ヴァスィレスク
- ジェイミー・エルマン
- マリア・ディヌレス
ルーマニアの小さな駅の駅長ドヤルは列車の積荷の中から少しずつ物品を掠め取ってお金をため隣の工場を買おうとしていた。そんな駅に、ユーゴスラビアに物資を運搬するNATO軍の列車が通りかかる。その隊を率いるアメリカ海兵隊のジョーンズはそのまま駅を通ろうとするが、ドヤルは書類の不備を理由に駅にとどまるよう命じる。いったいドヤルの目的は何なのか…
編集中に事故死してしまったクリスティアン・ネメスク監督の長編デビュー作にして遺作。不条理さと深いテーマ性を持つ秀作。
何の問題もなく通過できるはずの駅に何日も足止めされる。それはアメリカ軍の視点からすればカフカ的な不条理な物語になる。しかし、この作品は視点をアメリカ側に置かず、流動的にすることで多層的にこの出来事を見れるようにし、そこに深みを持たせている。 アメリカ軍の視線を代表する長官のジョーンズはとにかくいらだっている。職務に忠実なまじめ人間である彼は、最初は簡単に自体が収拾できると考えるのだが、それが長引くにつれイライラを募らせる。部下の希望を入れるという上官としての余裕は見せるのだが、自分自身は部下たちとは異なってその状況を楽しむことはできず、ストレスをためていく一方である。
駅長のドヤルは謎だ。確かに書類がそろっていないから通さないという彼の言い分は正しい。通関が不要なら不要でそのことを証明する書類があるはずだからだ。しかし、彼の不思議さはそこにあるのではなく、そののらりくらりとした態度にある。彼は書類がそろえばすぐ通るといいながら、彼らを通すために何かをするわけでは決してなく、むしろ彼らを長くとどまらせようとしているかに見える。町の祭りにも参加しない彼にはアメリカ人たちを引き止めておく理由などないように見えるのにである。
その理由は、何度か挿入される過去(第2次大戦終結時)のエピソードによって徐々に明らかにされてくる。ドヤルとその家族はナチスを追い払ってくれるアメリカ軍がやってくるのを待っていたのだ。しかしそこに現れたのはソヴィエト軍で、ナチスからは解放されたがまた別の圧制がそこには待っていたわけだ。子供だったドヤルは「アメリカ人が来る」という両親の言葉を信じて、アメリカ人を待ち続け、そのアメリカ人がついにやってきた。彼はアメリカ人を待っていたのだ。
しかし、彼はアメリカ人を歓待するわけでもなく、彼らに救いを求めるわけでもない。「待っていて、来た」という事実をただ受け入れるだけなのだ。そこにはやはり不条理さがあるが、歴史の重みというものも見える。時間は跳ぶように流れていくけれど、一人一人の人間の中では歴史は積み重ねられ、数十年前の出来事と現在の出来事は密接に結びついているのだ。その感覚の違いが不条理さを生み、この物語の不思議さを生んでいる。
しかし、この物語はただそれだけでは終わらない。ネタばれにはなってしまうが、この作品にとって重要な部分なので、書いておきたいと思う。
駅に足止めされて4日がたったころ、長官もついにドヤルと打ち解けて彼とワインを酌み交わし食事を共にする。しかしドヤルはそこで「同胞がアメリカ軍の爆撃で死んだ」ことをジョーンズに言う。それは途中のニュース番組の映像の中でも指摘されたアメリカ軍によるソフィアへの誤爆のことだろう。このセリフでこのシーンはぷつりと切れ、ドヤルとジョーンズの関係は再び断絶する。
そして、ジョーンズはドヤルをやっつけようという村の住民たちと協力し、彼らを後方から援護しようと提案する。警察とつるんでいるドヤルの側が発砲したら打ち返すというのだ。
しかし、その行動のそのとき、ついに列車は出発が決まり、ジョーンズは住民たちに何の説明もすることなく、そして自分の部下たちにその計画を話すことすらせず、その地をあとにする。アメリカ軍はまたしてもやってこないのだ。
この作品には、不条理さと恐ろしさとアメリカへの痛烈な皮肉と人々の生活がある。語られない余白にあるさまざまな思いがあふれ出し、作品を見終わったあとにも思考の流れは続く。こういう作品はいい。決して何かを難しく考えさせるわけではないけれど、世界のどこかでおきている私たちとはあまり関係なさそうなことを、個人のレベルに引き戻すことで、私たちにも捉えることができるようにする。そんな作品を作れる若き才能が事故で亡くなってしまったのは、どうにも惜しまれてならない。