アルゼンチンババア
2007/11/16
2007年,日本,112分
- 監督
- 長尾直樹
- 原作
- よしもとばなな
- 脚本
- 長尾直樹
- 撮影
- 松島孝助
- 音楽
- 周防義和
- 出演
- 役所広司
- 堀北真希
- 鈴木京香
- 森下愛子
- 手塚理美
- 岸部一徳
- きたろう
- 田中直樹
- 小林裕吉
町外れの草っパラの中にアルゼンチン遺跡と呼ばれる建物があり、そこにはアルゼンチンババアと呼ばれる女がひとりすんでいた。高校生のみつこは病気の母をいつものように見舞い行こうとするが、父の悟は行こうとせず、その日に母が息を引き取ってしまう。その日から父を姿を消し、数ヵ月後、悟がアルゼンチン遺跡にいることがわかる…
吉本ばななの原作を『鉄塔武蔵野線』などの長尾直樹が監督し映画化。どうも全体的にたどたどしい感じが…
まず映像が全体的に黄色から緑がかった特殊な色彩になっている。これはどこか『アメリ』を思わせるファンタジックな演出なのだと思うが、これが効果をあげているかというと疑問だ。そもそもこれはファンタジーではないのだし、この作品にこの色彩を使うことにどれほどの必然性があったのか、ただ独特の雰囲気を出すだけならばわざわざ見にくくするこんな効果を使わず、別の方法を使ったほうがよかっただろう。特殊な色彩を使うとき、その色彩が何らかのムードを生み出さなければならないはずだと思うのだが、この作品の場合、ただ色がついているだけで、それが何だという感じだ。
そして、このようにファンタジックな雰囲気にしてしまったことで逆に作品全体のバランスが崩れてしまっている。アルゼンチンババアはちょっと頭のおかしくなったおそらく50才前後の女性という設定だろうし、彼女の屋敷はいわゆる“ごみ屋敷”なのだろう。この作品では臭いだけは妙に強調されているが、鈴木京香は“ババア”という年には見えないし、彼女の格好もぼろではあるが清潔そうだ。彼女と抱き合ってすごい臭いがするというシーンが繰り返されるが、どう見てもそんな風には見えない。
設定という面で言えば、堀北真希が演じたみつこも堀北真希が演じるような美少女ではないように思える。この物語からするとみつこはごく普通のどちらかといえば地味な少女であるはずだ。それを堀北真希が演じてしまうと、いとことの関係もマッサージ店でのエピソードもどうもしっくりとこなくなってしまう。
その設定と配役のズレの問題が大きいのだともうが、役者たちの演技もどうもたどたどしい。特に堀北真希はこんな大根だったっけと疑問に思ってしまうような演技で、まったく自然さがない。鈴木京香もババアっぽさを出していいのか、違う感じで演じていいのか迷っているかのような感じで演技がまずいというわけではないのだが、どうも不自然さが残る。役所広司もまたしかり。
ただ、森下愛子と小林裕吉の親子だけは妙に自然だった。特に新人だという小林裕吉はまったく素のような感じで、これが演技だったらたいしたものだ。
そして、何度か不自然に発せられる説明じみた独り言がそのまずさを助長している。登場人物の心理を独り言で表明させるというのは映画の表現方法としては最悪のものだ。映画というのは映像の芸術でありエンターテインメントなのだから、不自然に発せられた言葉に頼らず映像の力でそれを表現するべきだ。不必要に言葉を多くしてしまうと映画の作り物としての側面が露わになってしまい、見ている側は興ざめしてしまう。この作品で発せられるいくつかの独り言はこの作品にとって致命的な欠陥だったと思う。
しかも最後は唐突に主人公のモノローグになる。モノローグは時に効果的だが、それまでまったくなかったのに、最後にいきなり入るとこれまた作り物じみた感じを助長してしまう。最後のつじつまあわせに説明させていることが見え見えだからだ。
監督はおそらくこの作品をファンタジーとしてとろうと考えたのだろうが、実はファンタジーこそリアリティを必要とするのだ。ファンタジーとはそもそも現実ではありえない世界を舞台とするものだから、そこに観客を引き込むにはリアリティがどうしても必要だ。それはもちろん現実の世界とは異なるリアリティでもかまわないのだが、少なくともそれが現実に似たものでありかつその世界が矛盾なく成立しているというリアリティが必要なのだ。リアリティを失ったファンタジーはただの絵空事、夢のように取り留めのない戯言に過ぎない。
作品の持つ雰囲気は非常に映画的なものであると思うから、監督と配役を変えてまた撮ったら、いいものができるのではないかという予感はするが…