ツォツィ
2007/11/19
Tsotsi
2005年,南アフリカ=イギリス,95分
- 監督
- ギャヴィン・フッド
- 原作
- アソル・フガード
- 脚本
- ギャヴィン・フッド
- 撮影
- ランス・ギューワー
- 音楽
- マーク・キリアン
- ポール・ヘプカー
- 出演
- プレスリー・チュエニヤハエ
- テリー・フェト
- ケネス・ンコースィ
- モツスィ・マッハーノ
- ゼンゾ・ンゴーベ
南アフリカ、ヨハネスブルクのスラムで暮らす若者ツォツィは3人の仲間とギャングじみた暮らしをしていた。ある日、金を奪うために男を殺してしまったツォツィは仲間といさかいを起こし、そのままひとりで車を奪う。しかしその車には赤ん坊が乗せられており、ツォツィはその赤ん坊を連れて家まで帰るのだが…
南アフリカの貧困と暴力を描いた感動作。2006年のアカデミー賞外国語映画賞に輝いた。
このところ南アフリカを中心にアフリカ映画が日本にも入ってくるようになった。その要因は世界が社会的なメッセージを持つ映画に注目するようになり、その際たるものとしてのアフリカ映画が主にヨーロッパで受け入れられるようになったからだろう。ヨーロッパで受け入れられれば、そこからアメリカや日本のマーケットへと作品が輸入されるのも時間の問題だ。そして、この作品の監督ギャヴィン・フッドはそんなアフリカ映画の世界進出を支える代表的な作家のひとりだ。彼はアメリカでの評価が高く、『X-MEN』の続編の監督に指名された。
そんなギャヴィン・フッドが描くヨハネスブルクはなんと言っても激しい貧富の差に包まれた世界だ。南アフリカはサッカーのワールドカップをやるくらいだから、相当に工業化された先進的な国で、都市の反映は先進諸国の大都市に近いものがある。しかし、その街の中心部から少しはなれたところにはスラムがあり、貧しい人々とが苦しい生活を続け、暴力と不正義がはびこる。この作品ではその街とスラムとの間の断絶を荒涼とした空き地で表現している。ツォツィが普段暮らしている場所から町に行くには荒れ果てた雑草しか生えていない荒地を横切っていかなければならない。そこには道もなく、もちろん明かりもない。その片隅の土管には孤児達が暮らし、ツォツィも以前はそこで暮らしていた。
その貧困の中にいるツォツィが街の裕福な人々と関わってしまったとき、物語が展開する。その物語の展開は決して奇抜なものではないが、しっかりと組み立てられていて面白い。しかし、この作品で本当に面白いと思うのはツォツィというキャラクターの内面ではないか。この作品にはツォツィの回想シーンが何度か挿入されるのだが、ツォツィの心理を思い出と結びつけ、親との関係を拾った赤ん坊との関係に結び付けていくそのやり方はなかなか秀逸なものがある。ツォツィが語ることと、彼の記憶として映像化されるものの間には齟齬があり、そこに彼の複雑な心理状態が表れている。暴力に満たされた世界で育った彼の心には、自衛のためにつかなければならない嘘が詰め込まれ、その奥底にある彼の本当の心は決して表には出てこない。
それを赤ん坊が引き出すというのは少々できすぎにも見えるが、赤ん坊の無邪気さ、純粋さには本当にそのような力があるのだと思う。何かを守るべき立場になったことによって気が付くことがあり、それは人間を成長させる。しかし、そのような変化は周囲にはわかりづらいし、そもそも自分自身もなかなか気づかない。ツォツィは自分おなかに生じた変化に戸惑い、何をすればいいのかわからなくなってしまう。無防備な赤ん坊に無防備だった自分の子供時代を重ね、それと今の自分を比べたときに沸き起こる当惑は彼を混乱させるのだ。
この作品のDVDには別バージョンとして2つのエンディングが収録されていた。2つともオリジナルの後に2分ほどの展開を加えたものだが、その二つ目に収録されているものが私にはしっくり来た。オリジナルのエンディングは静かにこの後の展開を観客に考えさせる形で終わる。それはそれでいいと思うのだが、その後の展開は決して明るいものにはなりえない。ツォツィには決して明るい未来はなっていないし、彼を取り巻く環境も変わらない。それは問題を提起しはするけれど絶望的な終わり方でもある。それに対して選ばれなかったエンディングのほうは絶望的な中にも彼の成長が実を結ぶ余地がある。社会は変わらなくともツォツィは成長し、成長した彼は彼自身と自分の周りの人々を少し幸せにするのではないか、そんな期待を持たせるエンディングなのだ。
アフリカを描いた映画を見るたびに思うのは、社会として希望が失われてしまっているという事実だ。いったいどうすれば明るい未来がアフリカに訪れるのかまったくわからない。しかし、同時にそれらの映画は個人のレベルでの希望を描いてもいる。アフリカに必要なのは正義や主義といった大義名分ではなく、個人が幸福を追求することができる権利とそうするための意欲である。社会を変えることは難しいが、個人が変わればいつか社会も変わるという希望を持つことはできる。
物語にはあまり関係ないように見える車椅子の物乞いがツォツィの人生に実は非常に大きな影響を与えたのだということは、彼が人間としての希望を決して失っていないというところからわかる。最後にツォツィは彼にお金をあげ、彼も受け取る。そのツォツィの行為こそ、彼が「目覚めた」ことの証なのだ。