ハサミを持って突っ走る
2007/12/1
Running with Scissors
2006年,アメリカ,122分
- 監督
- ライアン・マーフィー
- 原作
- オーガステン・バロウズ
- 脚本
- ライアン・マーフィー
- オーガステン・バロウズ
- 撮影
- クリストファー・バッファ
- 音楽
- ジェームズ・S・レヴィン
- 出演
- ジョセフ・クロス
- アネット・ベニング
- アレック・ボールドウィン
- ブライアン・コックス
- グイネス・パルトロウ
- ジョセフ・ファインズ
1970年、少年オーガステンは素人詩人の母と仲良く暮らしていた。1976年、母と父の関係がこじれ、ある夜、母は精神科医のドクター・フィンチを家に呼ぶ。ドクター・フィンチの治療によって救われた母は彼に頼るようになり、ついには彼の家に治療に行くが、オーガステンは母親の治療のため、その奇妙な家にしばらくとどまることになり…
オーガステン・バロウズの自伝小説の映画化。アネット・ベニングがゴールデン・グローブ賞にノミネートされた。
素人詩人で独創的な母親に育てられた美容師志望のゲイの少年オーガステン、夫との関係のもつれから精神科医にかかるようになり、ついにはその家にまで診察を受けに行くようになった母、その医師フィンチは物が散らかり放題の家に妻と二人の娘と猫と暮らし、彼自身も含め家族の行動は風変わりなもの。治療の一環としてモーテルで過ごすことになった母においてゆかれて、その家で過ごすこととなったオーガステンは、いつの間にかその家の一員となってしまい、いやいやながらもその家で暮らす。
ここまで書いてもいったいどんな話やら説明できていないと思うのだが、とにかくこの物語は奇妙なのだ。登場人物たちのとる行動の一つ一つがあまりに奇妙で、彼らの行動の真意がまったく読めない。さすがに主人公のオーガステンだけはまともな人間として描かれているから、彼の行動は理解はできるけれど、彼もやはり学校に行くことを拒否するゲイの少年/青年としてあまり「普通」とはいえない思春期を過ごしている。
このような理解できない人たちが係わり合い、展開していく物語はやはり理解できない。奇妙な人同士が係わり合い、ぶつかり合うとき、そこに生まれる展開はまったく予想できない。しかし、やはりそれなりに分析しないといけないのですると、この物語はドクター・フィンチという一人の人物を中心に展開されている。しかも、彼の精神科医としての権威や能力によって周囲の人間はある程度かされているのだ。彼の妻アグネスも、娘のホープとナタリーも息子のニールも、もちろんオーガステンの母ディアドラもドクター・フィンチの言うことに結局従ってしまうのだ。しかしそのドクター・フィンチ自身もかなりの変人なのだ。
このみんなが変人という映画が理解できないのは、どこに基準を置いていいかがわからないからだ。いったい誰を基準にものを考えていいのか、結局誰の視点が一番わかりやすいのか、それすらもわからないから混乱してしまう。しかし、それはこの作品がわけがわからなず、面白くないということではない。その奇妙さ、わけのわから名こそが今作品の面白さなのだ。そのわけのわからない中で突然はかれる啓示のような言葉、突然物事を変質させてしまうとっぴな行動、それらの中にはそれ自体混乱し奇妙なものである私たち自身の生活に響いてくるものがある。
たとえば、リビングでドッグフードをつまみながら恐怖映画を見ていたアグネスがオーガステンに美容師になるための本を私「希望は困難を乗り越えさせる」というようなことを言う。まったくそんなことをいいそうにないアグネスが吐くその言葉には妙な説得力があり、アグネス自身も自分が吐いたその言葉とその後のオーガステンとのやり取りによって少しずつ変わっていく。
となると、これはやはり癒しの物語なのだろうかと考える。傷つき、病んだ人たちが集う場所である精神科、その巣窟ともいうべきフィンチ家の人たちはみな傷つき、闇、孤独を抱え、愛を求めている。そこにやってきたある程度まともなオーガステンは彼らに変化をもたらすと同時に自分自身も孤独を抱え病んでいたことに気づく。そして、それぞれがそれぞれを癒していく… となっているようななっていないような。気になるのは、それがドクター・フィンチの意図通りにというか、影響下に行われているように見えるということだ。彼の家は巨大な実験室なのか、それとも彼自身もそのような環境によって癒されているのか…
オーガステンが最終的にはこの状況から抜け出さざるを得なかったこと、それはいったい何を意味するのか。理解できない人物たちが登場し、最後まで理解できない物語が展開される。それはもちろん理解できない映画なのだけれど、どこか魅力的でもある。その魅力は、彼らの抱える恐怖心が私たちの持つ恐怖心と共通しているからかもしれないと映画の最後に思った。私たちは誰しも「気が狂ってしまう」ことへの恐怖心を抱えて生きている。私たちはその恐怖が表に出ないように抑圧しながら生きているのだが、ここに登場する人々はその恐怖が前面に出てきてしまっている人々だ。だから、私たちは彼らに惹かれる。それはある種の怖いもの見たさであると同時に、自己の内面の探索でもある。
まあ、そんなことを言っても結局その恐怖と向き合うことがいやだから、最後まで行くことないのだけれど、その恐怖に向き合わざるを得ない彼らを見ることには、どこか後ろ暗い魅力があるのだろう。だからこの作品はよく理解できないのだけれど、どこか魅力的なのだ。