僕のニューヨークライフ
2008/1/11
Anything Else
2003年,アメリカ=フランス=オランダ=イギリス,112分
- 監督
- ウディ・アレン
- 脚本
- ウディ・アレン
- 撮影
- ダリウス・コンジ
- 出演
- ジェイソン・ヒッグス
- クリスティナ・リッチ
- ウディ・アレン
- ストッカード・チャニング
- ダニー・デヴィート
若手コメディ作家のジェリーは公園で初老のコメディ作家ドーベルからさまざまな話を聞く。ジェリーははじめてであったときに一目惚れした恋人アマンダと暮らしているが、このところあまりうまくいっていない…
周囲に翻弄される優しい青年ジェリーを中心に風変わりな人々の日常を描いたウディ・アレンらしいコメディ。
これがウディ・アレンだ。という感じ。ウディ・アレン本人が登場し、いかにも落ち着きのない男として喋りまくる。主人公の優しい青年ジェリーはそんなウディ・アレン演じるドーベルに敬服し、彼のアドバイスに従う。ドーベルの言っていることは確かにウィットがあったり頭のよさそうな言葉を使ったりして魅力的なのだけれど、落ち着きのなさも感じさせる。ジェリー自身もカウンセラーにかかっているのだけれど、ドーベルは精神病院に6ヶ月間入院したことがあるといい、恋人のアマンダもいくつも薬を飲んでいて、彼女の母親はアル中だ。
ようは彼の周りにはなぜかそういった心に何かトラブルを抱えている、あるいは社会との間に齟齬があるような人たちが集まって、ジェリーを悩ませる。ジェリーは受身で彼らのそんな心を受け止めてしまって混乱する。この物語は彼が主人公で彼の行動と彼のモノローグによって成り立っているのだが、よく考えると彼の精神というのはあまり描かれていない。彼は周りの人々の心を受け止めてそれを観客に伝える受像機のようで、それがなんとも…
彼の存在は本来ばらばらな3人のキャラクターをまとめる役目をしていて、そのばらばらなところがウディ・アレンらしいのではないかと思う。まあ世間的に言えば3人とも精神的に問題がある人々だけれど、ニューヨークのような都会に暮らす人は多かれ少なかれ精神に問題を抱えている。それが表に出てくるかどうかはその人の感受性の問題で、ウディ・アレンはそれが表に出てきてしまうような感受性の鋭い人を(自分自身も含めて)愛しているのだ。
だからそれを映画にする。ウディ・アレンはそのような人たちの一人としてこの作品に登場しているが、彼自身は実はジェリーのような人物なのかもしれない。あるいは両方なのかも。都会で暮らす中で自分自身では処理しきれない捩れを抱え、それをどこかで表に出さざるを得ないと同時に、同じようにそのような精神のねじれを表に出さざるを得ない人々の受像機となるようなそんな人物、それがウディ・アレンではないかと思ったりする。
ウディ・アレンの作品はそんなに好きではないのに、なんとなくついつい見てしまうのは、どの作品にもそんな彼の精神がにじみ出ているからだろう。私はそこにばかり気をとられてしまうから、彼の作品の区別がつかない。どの作品がどうだったかを思い出すことができないのだ。
ところで、この作品にはさらににじみ出てくるものがある。早口でまくし立てられる言葉の中には色々な人名や文学からの引用がある。その一つ一つにはもちろん意味があるのだけれど、それがわからないと作品わ理解できないわけではないし、ウディ・アレン自身もそれを期待してはいないだろう。わかるものもあれば、わからないものもある。わかるということは、そのトピックがその人にあっているということで、その部分だけ興味深く見ればいいということだと私は思う。たとえば私が一番よく理解できたのはドストエフスキーが引き合いに出される部分で、その部分はそれほど本筋とは関係ないのだが、それでもそこから感じ取れるものはあった。
ほかの人はほかの部分で感じ取るものがあって、それは人それぞれ違うのだろう。そしてわからない部分はわからない部分で引っかかるものもあり、それも作品の魅力になりうるのだろう。それは何かをつかもうとするための手がかりがたくさんあるということではないかと思う。もがいてもがいて何かを探す。それが人生、難しいように見えるかもしれないが、結局「人生そんなもの」(Like Anything Else)、結局難しく考えることはないってことだ。