音のない世界で
2008/2/2
Le Pays Des Sourds
1992年,フランス,99分
- 監督
- ニコラ・フィリベール
- 撮影
- ニコラ・フィリベール
- フレデリック・ラブラックス
- 音楽
- アンリ・メコフ
- 出演
- ドキュメンタリー
パリの聾学校、子供たちは手を口元に持っていって息がかかる感覚で聞こえない音を出す練習をしている。聾の子供たちを持つ大人たちのクラスでは、聾の男性が大きなゼスチャーで自分の経験を伝える。
聾の人たちがどのように感じ、どのように生活しているかを描いたドキュメンタリー。
子供たちは繰り返し繰り返し聞こえることのない音を発する練習をしている。補聴器をつければ、ある程度の音は聞こえるようなのだが、それでもこれまで聞いたこともない音を、やったこともないやり方で出そうということで、それがいったいどんな体験なのかは、想像することすら難しい。彼らには自分が発している音がどう聞こえるか決してわからないのだ。新たな技術を身につけ、それを自分の感覚で確認することができないまま実践していく。そのことの困難さがまず気になる。
しかし、子供たちも大人たちもそんなことを気に病む様子はあまりなく、それぞれ生活を楽しみ、生き生きと暮らしている。もちろんその生活に苦労はあるだろうが、聾者同士の間では盛んに手話の会話がなされ、音のない世界にある種の安心感を感じている。ある若者はインタビューで始めて補聴器をつけたときの記憶を語り、家に帰って補聴器をはずし、音のない世界に戻ると安心したと言う。音のない世界が普通の彼らにとって音のある世界とは自分の感覚を乱す、余計なものが多すぎる、煩雑な世界なのだろう。
しかし、やはり社会とかかわらざるを得ないとき、そこには困難が生じる。この作品の中で取り上げられているのは、若いカップルが部屋を探しているシーンだ。ここでは若いカップルが何とか話ができる友人と不動産業者と部屋を見に来ているのだが、なかなか話が通じない。肝心の友人の発音ははっきりせず、唇を読むのも正確にはできない。不動産業者の顔には明らかな戸惑いの表情が浮かぶ。
ここで気づくのは、フランスの聾者に対する教育があくまでも自立すること、健常者に混じっても普通に生活できることを目指しているようだということだ。手話や筆談を使って社会の中で困らないようになるのではなく、唇を読み聞こえない言葉をしゃべることでうまくすれば聾と気づかれないくらいの生活を送れるようにする。そこを目指しているような気がする。
日本やアメリカを見ていると、そうではなくて社会も聾者のほうに歩み寄り、妥協点というかどちらも多少の不便を感じながらも、みなが生活できる環境を作ろうとしているように見えるのだが、フランスの場合は聾者であっても一人の個人として社会に適応できるように努力しなければならないようになっている。ここにお国柄の違いが感じられる。このあり方はどちらにもいい点もあれば、悪い点もある。それはあくまで違いであってよしあしではない。
とにかく、そのようなフランスの社会で生きる聾者たちの日常をこの作品はうまく切り取っている。その困難さを強調すると言うよりは、彼らも当たり前に生きているのだということを示している。彼らと出会っても不動産業者のように戸惑うのではなく、一人の個人として尊重し、対等に扱うこと、それが彼らにとって重要なことなのだ。もちろん耳が聞こえる人と聞こえない人の間に違いはある。しかしそれは差異に過ぎない。耳が聞こえる人のほうが世の中には多いから、社会が耳が聞こえる人に便利なようにできているというだけで、耳が聞こえないことは必ずしも欠点ではないのではないか。世の中が色々便利になったら、耳が聞こえる/聞こえないというのは、右利き/左利きくらいの差異になってしまうかもしれない。
そんなことをつらつらと考えてしまうくらいに彼らは生き生きとしていた。