ショートバス
2008/2/6
Shortbus
2006年,アメリカ,101分
- 監督
- ジョン・キャメロン・ミッチェル
- 脚本
- ジョン・キャメロン・ミッチェル
- 撮影
- フランク・G・デマルコ
- 音楽
- ヨ・ラ・テンゴ
- 出演
- ポール・ドーソン
- スックイン・リー
- リンジー・ビーミッシュ
- PJ・デボーイ
ニューヨーク、ゲイの青年ジェイムズは自分のオナニーをビデオに録画する。向かいのビルにはそれを覗く男。SM女王のセヴェリンは金持ちのぼんぼんを客に仕事をこなす。ジェイムズと恋人のジェレミーが相談に行った恋愛カウンセラーのソフィアは実はオーガズムを経験したことがないことを告白し、ふたりに“ショートバス”というクラブを紹介される…
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェルが描く、過激でしかし真摯な愛のドラマ。
映画の始まりは、いわゆるハリウッド映画(特にラブコメ)の定番である街の空撮をパロディ化したかのようなジオラマの空撮である。よく見るとこれはCGで、この部分だけで相当金がかかっているように見える。このCGによるオープニングからいきなり部屋の中で自分の陰部を撮影している男のシーンへと移ることで、作品の世界を一気に表現するのだから、このCGの効果は絶大だ。そして、最初のシークエンスはその自分の陰部を撮影する男とそれを覗く男、セックスするカップルにSMの女王様とその客という3組のセックスシーンからなる。
このシークエンスはかなり強烈だ。セックスを描いているにもかかわらず、そこにあるのは欲望ではなくなぜか悲しみと可笑しさだ。自分の陰部を撮影した男ジェイムズは恋人が家に帰ってきて愛想笑いを浮かべるが、その心には孤独が巣食っている。夫とセックスをしていた恋愛カウンセラーのソフィアは「いっているふりをしている女がいるんだって」という話をして、それが自分のことだということを言外に示す。SMの女王様セヴェリンは終始、鬱積したものを吐き出せないかのような表情で貸し倉庫にある我が家に帰る。
この作品でまず目を引くのはやはりさまざまな性癖を持つ人々と彼らの性行動を赤裸々に描いた描写だろう。「少し変わった人たち」が集まるショートバスでは彼らは自分の性癖をさらけ出し、折り重なるようにセックスする。服を着ている人よりも裸の人のほうが多いのではないかという描写と、本当にセックスしているところを撮影した映像は(映倫の“配慮”によりぼかされているにしても)かなりショッキングではある。
だから、まずいわゆる“良識”を持ったひとは目を背けたくなるような作品だと思う。セックスの具体的な描写に嫌悪感を持つ人はもちろん、いわゆる“アブノーマル”な性を理解できない人も受け入れることが出来ない作品だ。しかもジョン・キャメロン・ミッチェルはあえてそれをやっている。それが端的に現れていたのはゲイの3人がセックスをするシーンでお尻に口をつけてアメリカ国歌を歌うシーンだ。保守派のキリスト教徒が見たら卒倒しそうなこのシーンに彼の意図が明確に表れている。彼はもはやそのような人々にこの作品を見てもらおうとはしていない。彼はこの作品に共感できるような人々しか相手にしていないのだ。
では、この作品に共感できるような人々とはいったい誰か。ショートバスの中で誰かが「911が初めてのリアルだった」という話をする。この作品で描かれているのはそういった“リアル”を喪失した人々だ。彼らはそのリアルを求めてショートバスへと集まる。同じようにリアルを喪失した人々は彼らに自分の姿を重ね合わせる。この作品に描かれている人々は確かに極端だ。しかし、彼らは私たちの心の底にある欲求や悩みを局限化した存在なのだ。
そして、そのリアルの喪失と探求に使われるのがセックスである。オーガズムを感じたことがないソフィアがなぜオーガズムを感じないのか、そしてどうしたらオーガズムを感じることが出来るのかという物語にそって描かれる人間とセックスとの関係によって“リアル”の問題を追及していく。
オーガズムについてこの作品が語ることを簡単に言えば、オーガズムというのは女性が外の世界や自分自身とどのように関わっているかを象徴的に示すものだということだろう。オーガズムを感じることができないソフィアは外の世界に対しても自分自身に対しても心を閉ざし、心の奥底にある何かを解放することを恐れている。ひとりでいるときにしかオーガズムを感じることが出来ないセヴェリンは自分だけが抱え、外の世界には決して見せられない何かを抱えている。
同じようにゲイのジェイムズやジェイミー、そしてそれを覗く男のセックスに対する態度も彼らのあり方を表している。特にすべてを撮影し、映像によってしか世界と関わることが出来ないジェイムズは決定的にリアルを喪失した存在だ。
このソフィアとジェイムズを追ってゆくことで、リアルの所在は少しずつ明らかになっていく。しかし最後まで決定的な答えは出ない。セックスは人々にリアルを感じさせるものであると同時にそれを阻害するものでもある。
しかし、いろいろ考えていくとただそれだけではないということもわかる。セックス抜きの親密な語らいも同じようにリアルなものだし、灯りがちらつくことで訪れる一瞬の静寂や最終的に訪れる停電も文明とリアルということを考えさせる。
この作品は決して手放しに面白いと賞賛できる作品ではないが、ジョン・キャメロン・ミッチェルは本当にいろいろなことを考えている人なのだということを感じる。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のほうがはるかに面白いが、この作品のほうがもしかしたら彼の考えをよく伝えているのかもしれない。