かつて、ノルマンディーで
2008/2/9
Retour en Normandie
2007年,フランス,113分
- 監督
- ニコラ・フィリベール
- 撮影
- カテル・ジアン
- 音楽
- アンドレ・ヴェイユ
- ジャン=フィリップ・ヴィレ
- 出演
- ドキュメンタリー
ノルマンディーの小さな村、そこに住む人々は30年前に映画に出演したことがあった。19世紀に実際にこの土地で起きた家族殺しを題材にした映画に助監督として参加したニコラ・フィリベールが30年ぶりにこの地を訪れ、当時の映画に出演した人たちから話を聞く。
フィリベール監督は自分のキャリアの出発点を見直し、そこで暮らしてきた普通の人々の物語も紡ぎ出す。
この映画はとても地味だ。ドキュメンタリーというのはドラマティックな演出が無いだけにとかく単調になりがちだけれど、多くはテーマ性や映像的な工夫でそれを回避しようとする。しかし、この作品(の特に序盤)は単調になることを恐れずに、地味にノルマンディーの片田舎に住む人々の生活を淡々と映し、彼らに30年前の映画についてインタビューをする。
このかなりマイナーなこの映画(もちろん日本未公開)を見ている人が観客の中にほとんどいないであろうことはフィリベール監督も想定しているのはずで、しかしその作品の説明を最初からしようとはせず、まず人々の話によって映画を組み立てていく。そこで語られている映画の全貌も見えないから、それぞれの人が自分の映画に対する思い出を語ってもそれが理解できず、はっきり行って退屈だ。
しかし、30年前の映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』の映像がはさまれながら、ここにいる人々の姿が30年前と重ね合わせれられ、そこからそれぞれの人の30年の歳月が紐解かれていくと、映画はぐんぐんと魅力を増していく。
ここに登場する人たちは本当に普通の人たちだ。30年前にミシェル・フーコーに触発された映画監督がその土地で起こった事件を題材に、そこに住む人々を役者として映画を撮ろうと考えたために、たまたま映画に出ることになった人たち。その人たちの人生を、その映画の助監督としてロケハンや出演交渉を行ったニコラ・フィリベールが30年後に振り返る。彼らに共通するのは映画に出たことはいい思い出だけれども、それで何か人生に大きな変化があったわけではないということだ。彼らは短い撮影の間だけ役者となり、すぐにもとの生活に戻って30年間を過ごした。しかし、彼らのその30年の話を聞くと、その歳月は決して平穏ではなく紆余曲折があり、波乱万丈があり、どの人の30年も1本の映画にでもなりそうなドラマを孕んでいる。
そして彼らは30年前の出来事をその波乱万丈の人生の中のいい思い出のひとつとして抱え続ける。それによって彼らはひそやかにフィリベール監督とつながり続け、30年という歳月を容易に飛び越えて再び結びつく。兄弟であったり、近所に住んでいたりする人々でも30年の間には疎遠になったりもするが、フィリベール監督が再訪することで彼らの人生はそこで再び交差し、複数の30年間がひとつの時間として撚り合わされていく。
ごく普通の人たちがごく普通の生活の中で経験していくドラマにはすごくリアリティがあるし、そのドラマは私達にすごく近いものに感じられる。そのドラマを丁寧に描いていっているところがこの映画の非常に優れている点だ。途中、行方知れずの主人公を演じた青年を探すというエピソードが盛り込まれ、少し映画の展開がしまりはするが、それでも最後まで普通の人たちのそれぞれのドラマによって映画を組み立てるという姿勢は変わらず、ある意味では退屈なまま映画は終わる。しかし、その平均化してしまえば平凡で退屈な普通の人の人生もひとりひとりに注目してみれば、それはドラマティックで退屈とは対極にあるということもわかる。
この映画を見ていると、ここに登場する人たちの一人一人がみな哲学者であるかのようにも見えてくる。それぞれが自分の人生に対して哲学を持ち、それをしっかりと抱えている。フランス映画には哲学的な会話がよく出てくるが、それは作られたものではなく、非常に日常的なことなのだということがよくわかる。
ニコラ・フィリベールは人々の手から離れてしまいそうになっている映画を私達の元に留めようとしてこのような映画を作っているのではないかとふと思った。ハリウッドの娯楽大作か、大言壮語の社会派ドラマばかりが作られる昨今、映画はどこか私たちのいるところから離れた世界のものになってしまっているような気がする。しかしニコラ・フィリベールの作品はそのような映画と私たちの間にあいた間隙を埋める、そんな映画なのではないだろうか。