泥棒野郎
2008/3/8
Take the Money and Run
1969年,アメリカ,85分
- 監督
- ウディ・アレン
- 脚本
- ウディ・アレン
- ミッキー・ローズ
- 撮影
- レスター・ショー
- 音楽
- マーヴィン・ハムリッシュ
- 出演
- ウディ・アレン
- ジャネット・マーゴリン
ニュージャージーで生まれ育ったヴァージルは子供の頃からドジな悪がきで、大人になってもせこい犯罪を繰り返し、ついに強盗で捕まってしまう。脱獄を図るがこれも失敗、新薬の治験者となることで仮釈放になるが…
ウディ・アレンの長編監督第2作。基本的にはナンセンス・コメディ。
ウディ・アレンにはさまざまな側面があるが、コメディアンというか喜劇作家としての側面がこの作品にはかなり色濃く出ている。ウディ・アレンが始めて監督した作品は1969年の『何かいいことないか子猫チャン』だが、この作品はその3年後に撮られた第2作ということになる。ウディ・アレンはそもそもギャグ・マンとして世に出たから、初期の作品はもちろんコメディで、しかも現在のようにシニカルな笑いをちりばめたドラマではなく純然たるコメディなのだ。
この作品は主人公の生い立ちを大げさに語るパロディめいたオープニングで、そこからいきなりギャグを連発する。めがねを踏みつけられるというくり返し、チェロに目覚め楽隊に入るが、歩きながらチェロは弾くことができないというギャグ、インタビューを受ける両親はひげめがねをつけている。
これが本来のウディ・アレンの笑いという気がするのだけれど、まさにこの笑いがウディ・アレンを好きか嫌いかを分ける1つの分水嶺にになっているような気がする。
私はこれで笑えないわけではないのだけれど、なんだか少し気持ちが悪い。それは何故かといえば、この笑いはあまりにウディ・アレン自身に近すぎ、日常に近すぎる。自虐ネタというわけではないがどこか私小説のような、内側をさらけ出すような笑いのような気がするのだ。それが端的に現れているのがウディ・アレン演じるヴァージルが仮釈放を得るためにワクチンの治験を受けるシーンで、彼はその副作用で8時間(だったかな?)ユダヤ教のラヴィになってしまったという。実際彼は独房の中で長いひげを生やし、帽子をかぶりぶつぶつと何かをいい、実験をした医師たちがそれを見守っている。これはギャグとして成立しているし、くすりと笑ってしまいもするのだけれど、どこか気持ちが悪くもある。それはこのギャグが宗教にかかわるものであるからという理由だけでは無い気がする。
そこにはもちろんウィットというか単なるギャグでは終わらない何かがあり、それが見ている人のほうに返ってくるわけで、それをちゃんと受け止められるのであれば、そのギャグに笑いかつ考えることができるのだろうが、そのような映画の見方に私は疑問を感じる。
だからそれは好き嫌いというか映画の見方に関わる問題であり、映画の作り方に関わる問題でもあるのではないか。ウディ・アレンはシンプルな映画を作っているようで、映画を構成する一つ一つのシーンにたくさんの要素を入れ込んでいく。ひとつのギャグに笑いと皮肉と告白が交じり合い、そのどれもが見ているほうに迫ってくる。その複雑さは好きではあるのだけれど、それが同時にやってくるというところがどうも気持ちが悪いのではないか。映画というのは映像と音で構成されるものだが、同時に時間をも内包するものだ。小説と違って作る側が請けての時間をコントロールすることができるために、映画も製作の重要な要素となる。私はこの時間を使って複雑さを生み出すような映画のほうが好きだし、受け手に考えさせるのにもいいと思う。しかしウディ・アレンはひとつのシーンであまりにたくさんの事を見せ、すぐに観客をほったらかす。そしてまたしばらくしたらたくさんの事を見せ、またほったらかす。このリズムがどうも気持ちが悪いのだと思う。
しかし、彼にはストーリーテリングの才能もあり、物語性を重視した80年代あたりの作品は非常に面白い。だとすると、初期のこの作り方は彼の狙いだったのか、それとも習作という試みだったのか、ウディ・アレンはいろいろな実験を映画の中でやる作家だから、その両方でもありえるわけだが、このような作品からキャリアをスタートしたというのはなかなか面白い。
私はあまり好きではないが、彼のキャリア全体を見るうえでは興味深くもあるし、見逃せないとは思う。ウディ・アレンという映画監督が見れば見るほど興味深い人物であることは間違いない。