暁の追跡
2008/3/10
1950年,日本,93分
- 監督
- 市川崑
- 脚本
- 新藤兼人
- 撮影
- 横山実
- 音楽
- 飯田信夫
- 出演
- 池部良
- 水島道太郎
- 伊藤雄之助
- 杉葉子
- 菅井一郎
新橋駅前交番の石川巡査は子供の具合が悪くなったという同僚の代わりに勤務に付く。結局や金になった朝早く、ひとりの容疑者が連れられてくる。石川が一瞬目を離した隙に逃げ出したその男を追跡すると、男は線路で電車に轢かれてしまった…
池部良監督、市川崑監督による犯罪ドラマ。脚本は新藤兼人でサスペンスのなかにヒューマン・ドラマが込められているという感じ。
この作品は石川が死なせてしまった容疑者の舟木が巻き込まれた犯罪の捜査と、石川が警察官であるということに悩む人間ドラマと、石川とラーメン屋の娘友子とのロマンスという3つの要素からなっている。映画の展開は舟木の死を発端として展開されるその犯罪の捜査にそって進んでいくが、その捜査が石川に警察官であることへの疑問を生じさせ、同時にそれがロマンスにも影響していく。この脚本はなかなか秀逸で、この時代の日本映画にはあまり見られないものだ。
実際のところ、犯罪の捜査というのは物語を展開させていくエンジンのようなもので、それ自体に面白みがあるわけではない。石川は一回の警邏に過ぎず、捜査本部への配属を申し出るが、それをかなわず、捜査に参加することはできない。その中で捜査は淡々と進み、紆余曲折を経ながらも順調に進んでいくのだ。
それよりも面白いのは石川という人間を描いたヒューマンドラマの部分である。ヒューマニストである石川は警察官であっても人間だということをまず原則に考え、警察官としての職務を果たすことを何よりも重視する同僚の警官と対立する。そして仲の良かった同僚の檜が銃の暴発によって解雇されてしまうと、自分も警察を辞めることを考えるのだ。そこには労働争議のデモを制圧に行ったときに感じた無力感も理由としてあった。それは警察官が見方であるべき貧しい人々を暴力で制圧しなければならない現実であり、彼は自分も月給をもらっている身として「共食いをしているようないやな気持ちになる」と語る。
最終的に彼は警察は貧しい人を助けて、犯罪を起こさなくて住む社会を作るのが理想だと語る。警察の理想とは警察がいらない社会を作ることだというのだ。これはこの作品が一貫して貧しさゆえに犯罪に加担してしまった人々を描いているということに合致している。もちろんいくら貧しくたって犯罪を犯さない人もいるのだから、犯罪を犯すというのは“弱さ”の表れではあるのだろうけれど、そこには簡単に“弱さ”のためといって片付けてはいけないものもある。
さすがにこの作品は東宝争議の末出来た新東宝の作品という気がする。作られたのも1950年でまだまだ戦後の混乱期、貧しい人は本当に貧しく、社会もそれを支えられるほど強くは無かった。その中で警察の役割を見直し、貧しい人々に目をやるというのはいかにも「大衆のもの」であろうとした映画らしいというところではないか。
この作品の製作には警察が協力しているが、そこには警察のイメージの刷新という意味もあったのではないか。警察というと戦争中までは国家の手先であり、人々を糾弾するものというイメージがあったけれど、戦後民主主義の下では警察は民衆の味方であり、人々のために働く公僕となった。そのことを人々の理解してもらうために映画が大きな役割を果たすと考えたのだろう。この作品に登場する通行人達は警官の姿を捉えると逃げて行ったり顔を隠したりする。別に疚しいことをしているわけではないのだろうが、やましいところが無くてもいやな目にあわされてきたこれまでの記憶が警察にそのような態度をとらせるのだ。これ1本で警察のイメージが変わったとは思えないが、警察官も一人の人間に過ぎないというメッセージは充分に伝わっていると思う。
これは本当に良く出来た作品だ。市川崑の初期の代表作のひとつであり、新東宝の代表作のひとつでもあると思う。まだ若かった市川崑と新藤兼人という2人の才能が出会って、こういう作品が出来上がったのだろう。