選挙
2008/3/12
2006年,日本,120分
- 監督
- 相田和弘
- 撮影
- 相田和弘
- 出演
- 山内和彦
- 山内さゆり
- 荻原健司
- 川口順子
- 橋本聖子
- 石原伸晃
- 小泉純一郎
2005年の川崎市議会議員補欠選挙、山内和彦は自民党の公募で候補者となった落下傘候補、選挙のイロハもわからないまま先輩の市議会議員や県議会議員、国会議員らの応援を受けて選挙戦に挑む。
相田和弘が「観察映画」第一弾と題して製作したドキュメンタリー映画。ナレーションやインタビューを排し、「観察」に重きを置いて選挙という現象の内幕を明らかにしていく。
まずは、映画の主人公である山内和彦を紹介するように映画は始まる。文字や言葉による説明はないが、彼の行動、支援者や町の人々との会話から彼が川崎市宮前区の市議会議員補欠選挙の自民党公認の候補者であり、公募によって選ばれた初出馬の候補であること、選挙のために最近引っ越してきたことなどがわかる。
前半は彼の不慣れな選挙活動を丹念に描く。カメラは彼に密着し、時には会話をし、ともに町を回る。確かにナレーションもインタビューもないが、果たしてこれが「観察」と言えるかどうかには多少疑問がある。ひとつはカメラがひとつの人格として山内候補と会話をしたりするという点、もう一つはカメラがあることで山内候補が会う人、特に一般の人たちに影響を与えるという点である。
もちろんカメラが存在していてまったく影響を与えないということなどありえない。選挙という場ではカメラはそんなに珍しいものではないだろうけれど、この作品にも映っているように子供たちはカメラに向かってアクションを起こし、時にはカメラに映らないようにかがんで通り過ぎるような人も出てくる。「観察映画」というからにはそのような目に見える明らかな影響はなるべく観客の目に触れないように編集するべきではなかったかと思う。実際には影響を与えていたにしても、それを見えないように、山内候補にも有権者にもコミットしていない部分だけで映画を構成するべきだったのではないか。
もちろんそうすることは恣意的な選択であり、フィクショナルな物に一歩近づくようには見える。しかし、「観察映画」ということとフィクションであるということは必ずしも矛盾しないのではないだろうか。ドキュメンタリーと言われている映画も恣意的な選択と構成の産物であり、そこにはフィクションの要素が必ず入って来る映画の目的に合わせて事実を再構成したものがドキュメンタリーだとしたならば、「観察映画」もこれが「観察」であるということを観客に納得させるために事実を再構成してもドキュメンタリーであることに変わりはないはずだ。この作品はドキュメンタリーとして、あるいは客観的でなければならないと言うことに対して変に忠実であるがために、わざわざ宣言した「観察映画」というタイトルと矛盾するような構成を取ってしまったのではないか。
わたしはわざわざ「観察映画」などというタイトルはつけずに作ったほうが自由に作れたのではないかと思う。この作品が描こうとしているのは選挙を通した民主主義の実情だろう。その主題を描くことを第一とするならば「観察映画」などという思わせぶりなタイトルを使う必要はなかったのではないか。
その主題の面では、この作品はなかなかうまく構成されていると思う。特に街中での演説風景や選挙とは関係のない通勤や屋台の風景と講演会などの選挙に深くかかわってる人との会合を対比させることで選挙というものの実情を明らかにしている。最初の演説シーンで聞いている人がまったくいなかったことに代表されるように、毎日を忙しく過ごしている人には選挙にかかわっている暇などないのだ。朝ぎゅうぎゅう詰めの電車に押し込まれる人々(最近はかなり少なくなったがこの作品の舞台となっている田園都市線沿線では決して珍しい風景ではない)は一日仕事をして疲れて帰ってくる。8時から8時までと決められた選挙運動の時間に家にいることはほとんどない。しかし彼らは自分の考えでどの候補がいいかを判断し投票する。
これに対して講演会とかかわっているような年寄りや自営業者は候補者と直接あって話をする。世の中には時間をもてあましている人も多いのだ。自民党の支部ではおばさんたちがチラシを手作業で一枚ずつ折っているが、何万円かを出して機械を買えば数分で終わってしまう作業だ。ここではお金よりも人手が余っているのである。そしてそんな人たちが投票する先を決めるのは縁や恩である。
果たしてこれが民主主義なのか。これを見ているといったい民主主義とは何なのかわからなくなってくる。もちろん地縁血縁で投票する先を決めてもいいわけだが、そのような地縁血縁やあるいは単なるイメージで決まった議員が政治を行うのが民主主義というものなのだろうか。民主主義とは本来は人々の意見を代表する人たちが議論することによって政治を行うという制度のはずだ。
さらには、山内候補が自民党の組織力のすごさについて話したとき、その相手となった応援議員(だと思う)が「公認は党をあげての支援を受けて当選しているのだから、造反なんてとんでもない」ということをいう。これは議員もまた自分自身の主義主張よりもしがらみに縛られながら議員活動をしていると言うことを図らずも明かしてしまっているシーンだ。自分の主張と違っていれば、たとえ所属する党であっても反対を突きつけるのが政治家であり、民主主義だと思うのだが…
そのような疑問をこの作品は投げかける。そこは非常に面白い。答えを与えるのではなく、見るものに考えさせるそれはこの作品のいいところだ。
そして、時折生々しい人間の姿が現れるのもこの作品のいいところだ。その際たるものは奥さんが帰りの車の中で愚痴とも怒りともつかない言葉を並べ立てるシーンだ。奥さんの言っていることはもっともで、それが素直な感情であることが伝わってくるしすごく面白い。この場面だけでもぜひ見てほしいので内容は言わないが、これはカメラが内側に入り込んでいくことで存在感をなくし、人々の生の姿を捉えることができた瞬間だと思う。