パラダイス・ナウ
2008/3/17
Paradise Now
2005年,パレスチナ=フランス=ドイツ=オランダ=イスラエル,82分
- 監督
- ハニ・アブ・アサド
- 脚本
- ハニ・アブ・アサド
- ベロ・ベイアー
- 撮影
- アントワーヌ・エベルレ
- 音楽
- ジナ・スメディ
- 出演
- カイス・ネシフ
- アリ・スリマン
- ルブナ・アザバル
- アメル・レヘル
- ヒアム・アッバス
- アフラフ・バルフム
イスラエル占領地、ヨルダン川西岸地区の町ナブルス、車の修理工場に勤めるサイードとハーレド。ある日ハーレドが客と悶着を起こしクビに、サイードはヨーロッパ育ちの女性スーハと知り合う。その夜、ふたりはテルアビブでの自爆テロの実行者に決まったと告げられる。翌日ふたりは決心を決めて国境へと向かうが…
自爆テロを題材としたサスペンス・ドラマ。監督はパレスチナ人のハニ・アブ・アサド。アカデミー外国語映画賞にノミネートされるが、イスラエル人による反対運動が起こったといういわく付きの映画。
この映画からわかるのは、自爆テロ犯というのが必ずしも宗教的狂信者では無いということだ。希望の無い生活に絶望した若者が自分の未来と家族や国家の未来、そしてこの戦いの行く末を見据えようと努力しながら、選択した選択肢なのだ。そのような選択に至るにはさまざまな要素があることをこの作品は描く。入植者によって土地を奪われたことへの怒り、それを発端とする戦争により家族や友人を奪われたことへの憤り、テロという手段の有効性に対する疑念、他の手段が見つからないもどかしさなどなど、それらの様々な要素を整理して考えるというよりはそれらをすべて飲み込んだ上でどのような感情が沸くかによって行動を決めようとするサイードにはためらいがある。それに対してシンプルに自爆テロの意義を信じるハーレドにはためらいが無い。
しかし、最初の計画が躓いたことでふたりの心境に変化が表れる。そこで生じる心の変化というのはなかなか捉えずらい。結論としては自爆テロをするかしないかというどちらかなのだが、その結論のどちらに振れるかは様々な要素よ微妙なバランスによって違ってくるのだ。その微妙さ、テロを実行するかどうかということが妄信的な決意によってではなく微妙な判断の結果であることを言うことにこの映画の意義があるのだろう。
この作品はその決断に至る過程をサスペンスとして描くことでその部分をクロースアップする。テロという明確な行為の背後にある決して明確では無い背景、そこに目を向けることから問題のありかが見えてくるのだろう。
根本的な問題はステレオタイプ化と二元論にあるのだろう。イスラエル人とパレスティナ人、入植者と被入植者、加害者と被害者そのような二元論によって人々は行動に駆られ、自爆テロを起こしたり、戦争に参加したり、映画上映の反対運動に参加したりする。
しかし、その二元論の2つの項目の境界というのはそれほど鮮明なものなのだろうか。作品の終盤でイスラエルもパレスチナもともに加害者であり同時に被害者であるということが語られる。加害者と被害者はその瞬間には明確であるように見えるけれど、その事柄を取り巻く状況を見てみると、それほど明らかではなくなってくる。それはテロを実行する/しないという二者択一の判断の微妙さとも通じるものだ。選択に至る過程は様々で、その判断は非常に微妙なものだけれど、結果からはする/しないというという単純なふたつの結論しか出てこないのだ。二元論というのはつまりそういうことだ。物事をふたつに分け、その内部の違いには目をつぶり、物事を単純化して断罪したり擁護したりする。
私がここで敢えて自爆テロ犯と映画上映の反対運動に参加する人を同列に論じたのは二元論によって論じられる一方にはそれほどかけ離れた人々が一緒くたに含まれているということを言いたいがためだ。アメリカがパレスチナの“過激派”という人たちの中にはこの映画でテロ実行犯となるべく選ばれたサイードはもちろん含まれるが、たとえばその母親も息子を守ろうとしただけでそこに含まれてしまう恐れがある。パレスチナ人は“過激派”と“それ以外”に区別されてしまうが、その境界はどれほど明確なのだろうか。アメリカはイラクを空爆した際、一般人は巻き込んでいないといったが、その“一般人”と“戦闘員”の間にどれほど明確な境界があるというのか。しかし、アメリカは(同時にイラク側も)そこに境界を定めて自分達の正しさを声高に主張する。そこから生まれるのは水掛け論と無理解と恨みと復讐だけである。
重要なのはその二元論自体を壊すことであり、ステレオタイプという牢獄から人々を解放することだ。それは何も大げさなことではなく、一人一人の人間がそのように考えることによって始まることだ。二元論はわかりやすい。だから人間は二元論に頼る。しかし現在の社会/世界では複雑なことを単純化する利益よりもその弊害のほうが大きくなってしまっている。われわれは二元論を捨てて、人間の特性である巨大な脳を使って複雑なことを複雑なまま捉える努力をすることこそがいま求められているのだと私は思った。