愛されるために、ここにいる
2008/3/27
Je Ne Suis Pas La Pour Etre Aime
2005年,フランス,93分
- 監督
- ステファヌ・ブリゼ
- 脚本
- ステファヌ・ブリゼ
- ジュリエット・サレ
- 撮影
- クロード・ガルニエ
- 音楽
- エドゥアルド・マカロフ
- クリストフ・H・ミュラー
- 出演
- パトリック・シェネ
- アンヌ・コンシニ
- ジョルジュ・ウィルソン
- リオネル・アベランスキ
50代の司法執行官ジャン=クロードは長年続けてきた仕事と老人ホームに暮らす父親を週末に訪れるだけの日々を過ごしていた。そんな中、医者に軽い運動をすることを勧められた彼は前から気になっていた職場の向かいのタンゴ教室に通い始める。そしてそこで幼い頃彼の家族の世話になっていたというフランソワーズと出会う…
フランス映画らしい大人のラブ・ストーリー。監督はこれが長編第2作となるステファヌ・ブリゼ。
「人間はなぜ愛する人を傷つけてしまうのか」なんて柄にも無いことを考えてしまう。人は愛する人の前で何故か意地を張って自分も相手も傷つけてしまうようなことがある。この物語の中心にあるのは疲れた中年男ジャン=クロードと結婚を目前にした30代と思われる女性フランソワーズのラブ・ストーリーだが、このジャン=クロードを中心とした父-息子3代の関係が「人というもの」を考えさせる材料になる。
昔から気難しかった父親が、毎週やってくるジャン=クロードにも文句ばかり言うが、彼が帰るときには窓からそっとのぞく姿、息子が事務所で働くことになったのを素直に喜ばずそっけなく接するジャン=クロード、その姿は自ら愛されることを遠ざけているものの姿に見える。
愛とは与えるものだが、彼らは文字通り愛されようと愛を求めている。そのためにそれはどこか愛の奪い合いのようになってしまい、誰も愛されない愛が不在の関係になってしまう。3人ともが互いのことを思っているにもかかわらず、それを表に出すことが出来ず、自らそれを遠ざけてしまうのだ。
しかし、ジャン=クロードはフランソワーズに出会い、彼女に愛を注ぐことで「愛すること」を思い出す。対するフランソワーズは婚約者を愛しているが、執筆にかかりきりな婚約者とジャン=クロードの間で揺れてしまう。そして、そのフランソワーズの家族も登場し、彼女もまた「愛」に迷う。
これはいかにもフランス映画であり、いかにもなフランス映画として平均的な出来だ(つまり十分見るに耐えるということ)。監督もまだ長編2作目ということだし、出ている役者も決して有名ではない。それでも演出は奇をてらわず着実で、演技もしっかりとしている。タンゴというのもまた雰囲気があっていい。
多分、まったく話題になることなく、レンタルビデオ屋の隅のほうに置かれ、時々ケーブルテレビなんかで放送されるような映画になるのだろうけれど、これこそがフランス映画なのだという気がする。フランス映画も最近はハリウッド化が進み、アクション映画が増えたり、いわゆるスターがもてはやされるようになったりもしているけれど、こういう作品が若手の監督から出てくるようならまだまだ大丈夫だと思う。
フランス映画はいつも「愛」を描き、「人」を描いてきた、そしてそれは常に人の理性と感情を描くことでもある。愛と人を描いた作品は見るものを考えさせるし、そこに登場する人たちの感情は私たちを揺さぶる。
50歳のジャン=クロードがフランソワーズに恋をして、彼女のことを思って贈り物を買い、エレベータ前でそっと彼女の手を取る。そのドキドキが画面からぐっと伝わってくる。まあくさいといえばくさいのだが、このくささこそがいつまでも変わらない恋のドキドキ感を伝えるのだ。
「いくつになっても恋をするってのはいいもんだ」とまた柄にも無いことを書きたくなる。そんないい映画だった。