ファクトリー・ガール
2008/4/17
Factory Girl
2006年,アメリカ,91分
- 監督
- ジョージ・ヒッケンルーパー
- 原案
- サイモン・モンジャック
- アーロン・リチャード・ゴラブ
- キャプテン・モズナー
- 脚本
- キャプテン・モズナー
- 撮影
- マイケル・グレイディ
- 音楽
- エドワード・シェアマー
- 出演
- シエナ・ミラー
- ガイ・ピアース
- ヘイデン・クリステンセン
- ジミー・ファロン
- ショーン・ハトシー
画家を目指す良家のお嬢さんイーディは美術学校を辞めてニューヨークへやってくる。以前からポップアートに関心を持っていた彼女はアンディ・ウォーホールのパーティに出席、そこでアンディに気に入られ、彼のアトリエ“ファクトリー”に出入りするようになる。そしてアンディのお気に入りとなった彼女は彼の映画に出演して一気にメディアの注目を集めるようになる…
60年代のカルチャーシーンを席巻し、わずか28歳でなくなったイーディ・セジウィックの反省を描いたドラマ。ファッションや音楽など60年代のムードが格好いい。
私はイーディ・セジウィックを知らなかった。60年代のアメリカのカルチャー・シーンを席巻し、“ユース・クエイカー”と呼ばれたスーパースターだったとしても、その短い栄光はその時代をリアルに生きていないものにとっては歴史に過ぎないというわけだ。しかし、この作品に登場するたくさんの名前アンディ・ウォーホール、ボブ・ディラン、ヴァルヴェット・アンダーグラウンド、ルー・リード、モリッシーはいまも活躍していたり、伝説として語り継がれていたりする名前だ。
イーディ・セズウィックはそんな伝説の一部として、当時は彼らよりも輝いていた。そして初めて“スーパースター”と呼ばれた彼女はスーパースターの数奇な運命をたどった初めての女性でもあったというわけだ。ここで描かれた彼女の人生はあまりにきつい。ほんの一瞬の栄光と長い絶望、孤独と自己嫌悪、それは本当に見ているのがつらいくらいのものだ。
だから、なかなか「面白かった」とはいい難い映画だ。希望が無いし、教訓もない。
しかし、作品として優れていないかというとそうではない。見ていてつらいという感覚を観客から引き出しているということは、この作品に力があるということだ。その力の源は主にふたつのものによると思う。
1つは60年代という時代の再現性。特に本物のヴィンテージを数多く使ったというファッションは60年代の空気を私たちに伝える。60年代の映像というのは今も数多く残っていて、いつでも私たちはそれを見ることが出来るわけだけれど、それはあくまでもリアルタイムの視点で記録したものであり、今私たちが60年代について知りたいことについて記録してあるわけではない。まさにイーディ・セズウィックについていえば、60年代においては彼女こそがイコンであり、最高の被写体であったわけだが、今から見れば彼女がどのような人たちと係わり合い、ウォーホールやディランがどのような人物だったのかということをこそ知りたいのだ。この作品は現在の視点からイーディ・セズウィックを取り巻く60年代を再構築し、私たちに見せる。その際にファッションや風景や音楽といった時代の条件を克明に再現することでそれに真実性を持たせているのだ。
もう1つはアンディ・ウォーホールを演じたガイ・ピアースだ。ガイ・ピアース演じるアンディ・ウォーホールはまったく無表情だが、その裏に冷酷さをにじませる。アンディ・ウォーホールは映像や言葉も残ってはいるが、謎の多い人物なのは、その無表情さによるところが多いが、冷酷な人物であったという話は聞く。この作品のアンディ・ウォーホールはまさにそのような人物だし、それが真実であったか否かに関わらず、イーディ・セズウィックを描いたこの作品においてこのアンディ・ウォーホールの存在は非常に重要なのだ。アンディ・ウォーホールは冷酷で、いやな奴で、マザコンで… ガイ・ピアースは無表情の中にそれらをすべて込めている。