地球交響曲 第六番
2008/4/21
2007年,日本,127分
- 監督
- 龍村仁
- 撮影
- 赤平勉
- 音楽
- 安藤賢次
- 出演
- ラヴィ・シャンカール
- アヌーシュカ・シャンカール
- ケリー・ヨスト
- ロジャー・ペイン
- ポール・ウィンター
- 榎木孝明(声)
- 森田真奈美(声)
- 奈良裕之
- KNOB
- 雲龍
- 長屋和哉
インドのシタール界の巨匠でノーベル平和賞の候補にもなったことのあるラヴィ・シャンカール、コンサート活動は行わずアイダホ州の田舎町でピアニストとして活動するケリー・ヨスト、クジラの声を集めそれを分析し音楽として完成させようとするロジャー・ペイン。
この3人の活動にくわえ、独自の音楽活動を行う4人のアーティストの音楽を通して“虚空の音”に迫るドキュメンタリー。『地球交響曲』(ガイアシンフォニー)シリーズの第6作。
この『地球交響曲』はエコロジーとかナチュラルライフなんてことが今ほどは叫ばれていなかった1992年に龍村仁監督が取り始めたシリーズでこれまでもさまざまなテーマでさまざまな対象を取材し、映像化してきた。地球交響曲=ガイアシンフォニーというだけあって、常に“地球”をテーマにしている。
この作品も銀河の映像、ビッグバンについてのナレーションから始まり、時間も物質もエネルギーもないところからビッグバンによって生じた宇宙の、そのビッグバン以前の状態としての“虚空”を音によってとらえようという試みであることが明らかにされる。
最初は狩猟に使う弓を元に作られた楽器を自然の中で奏でる奈良裕之の映像に始まり、シタール奏者ラヴィ・シャンカールのドキュメントへと移る。
このラヴィ・シャンカールのパートは本当に面白かった。私がシタールについて無知だったということもあるのだが、7本の弦と13本の反響弦を持つこの楽器は、実際に爪弾く弦の音とその後に生じる反響弦の音が反響し、干渉し、不思議な音の揺らぎを生む。確かにそこには“虚空”が感じられるような気がする。
虚空というのはこの作品でも言っていることだが、五感で感じるのとは別の空間である。それを“ビッグバン”と絡ませたとき、私が思うのは、“ビッグバン”のときこの世界と同時に生じた“負の世界”のことである。“ビッグバン”は何もないところから有を生じさせたのではなく、プラスとマイナスを生じさせたという考え方がある。私たちの生きている世界はプラスの時間の世界だが、同時にマイナスの時間の世界が生じ、そのふたつを相殺すれば依然としてプラスマイナスはゼロ、つまりビッグバンは有から無を生じさせたのではなく、宇宙のあり方を変えたということだ。
と書いてもよくわからないと思うが、そのマイナスの宇宙が“虚空”であると私は思う。“虚”という言葉は何もないということを意味すると同時に二乗するとマイナスとなる数が“虚数”と呼ばれるように「仮想的なもの」という意味でもある。“虚空”というのは現実の空間だけでは理解できなかったり、説明できなかったりする何かを説明するために仮想された仮想空間であると私は思うのだ。
シタールの反響弦の音は、演奏者が能動的に発した音に対して発せられる音としていわばプラスとマイナスの関係にあるのだと思う。このプラスの音とマイナスの音が響きあい、まさに均衡した瞬間、そこには「無音の音」が響き、それこそが虚空の音なのだとラヴィ・シャンカールはいっているように思う。
そしてその虚空の音は私たちを癒したり、啓示のようなものを与えたりして、私たちの現実に影響を与えるのではないか。
“虚空”ということを語ろうとするとどうしても神秘的な物言いになってしまうが、それが現実では説明できないことを説明するための仮想空間として設定されてしまう異常それは仕方がないことだ。それが何なのかをいつかは物理学者が説明することになるのかもしれないが、今のところは“虚空”としかいえないその空間が私たちに何らかの影響を与えていることは間違いない。
その“虚空”の音をこの作品はラヴィ・シャンカールを通して考えさせてくれる。果たしてその音がこの作品に表現されているかは見る人の感性にもよってくることなのだと思うが、それについて考えさせてくれることは確かだ。
このラヴィ・シャンカールのパートと比べると、後の二つのパートはなんだか説明臭くて、NHKスペシャルを見ているようで今ひとつのっていけなかったが、ケリー・ヨストのピアノが人々に癒しをもたらすというのも、彼女の音が一部の人には“虚空”を感じさせるということだろうし、クジラの歌というのもそうなのかもしれない。