アイム・ノット・ゼア
2008/4/23
I'm not there
2007年,アメリカ,136分
- 監督
- トッド・ヘインズ
- 原案
- トッド・ヘインズ
- 脚本
- トッド・ヘインズ
- オーレン・ムーヴァーマン
- 撮影
- エドワード・ラックマン
- 音楽
- ランドール・ポスター
- ジム・ダンバー
- 出演
- クリスチャン・ベイル
- ケイト・ブランシェット
- マーカス・カール・フランクリン
- リチャード・ギア
- ヒース・レジャー
- ベン・ウィショー
- ジュリアン・ムーア
- シャルロット・ゲンズブール
アルチュールと名乗り意味深な言葉で質問をはぐらかす詩人、ギターを抱え貨物列車に乗り込んで音楽を語る黒人の少年、社会派フォークで人気を博したロックスター、フォークシンガーの伝記映画に出演するハリウッド・スター、プロテスト・ソングを捨て新たな音楽を求めたロック・スター、山深い小屋で犬と隠遁生活を送る元ロック・スター。
6人の役者がボブ・ディランをモデルにした6人の人物を演じた前衛的な伝記映画。監督は『ベルベット・ゴールドマイン』のトッド・ヘインズ。
ボブ・ディランは伝説である。ミュージシャンにとってだけでなく、一般のロック・ファンにとっても伝説であり、マニアも多い。マニアでなくともその名前は聞いたことがあるし、その曲も聞いたことがある。しかしよく考えると耳覚えがあるのは“Blowin' In The Wind”や“The Times They Are A-Changin'”、“Like A Rolling Stone”といった60年代の楽曲ばかりで70年代以降の曲は具体的には名前を挙げることはなかなか出来ない。しかし、実際はその曲を耳にしているはずだし、彼は今も曲を作り続けている。
この作品はそんなボブ・ディランの生涯を明らかに、しはしない。この作品が描くのはその時々のボブ・ディランをモデルに作り出された架空の人物である。シンガーとして生きていくために旅を続ける少年、社会派フォークで人気を得た歌手、ふたりの女性の間で揺れるスター、ドラッグ三昧でエキセントリックな行動も多くなったロック・スター、隠遁生活を送る元ロック・スター、モノローグで語り続ける詩人。私たちは彼らがボブ・ディランだという予備知識を持ってみているからそこに共通点を見出すことが出来るが、漫然と見たら完全に異なる人物にも見える。それはもちろんボブ・ディランという人間の多層性を示し、彼の不安定さを物語る。
伝説というのはその人物を必要以上に偉大な存在に仕立て上げ、その思想や主義が一貫したものであるという幻想を与える。しかしディランはそのような人物ではなく、むしろ欺瞞に満ち、ドラッグに溺れ、女性にもだらしがない不安定な人間だった。この作品が6人の人物によって描くのはボブ・ディランのそのような人間性だろう。この作品はディランの伝説を語るよりむしろ、その人間臭さを暴くのだ。
などと書いたが、とりあえずそれは見てから考えたことなわけで、映画を見ている間はこのばらばらのエピソードがどうまとまっていくのかを考えるのが精一杯で、なかなか理解するのは難しい。
それでも一つ一つのエピソードが面白く、2時間を越える作品だが集中してみることが出来る。特に素晴らしかったのはケイト・ブランシェットで、スターとなったが社会派フォークからエレキベースの激しいロックへと転向したディランの繊細さ、不安定さを見事に演じている。このエピソードにはビートルズの話題や、イーディ・セジウィックと見られる女性も登場し、設定としてもわかりやすいし、このエピソードが映画の中心になっていることは間違いない。
このエピソードが本当によくて、他がかすんでしまった感はあるが、どのエピソードもよくまとまっているし、振り返ってみるとそれぞれ意味がある。“This Machine Kills Fachists”というギターを抱えた黒人少年と、牧師となった元ロックスター、このふたりが同一人物とだれが想像できるだろうか。しかし、ボブ・ディランはウクライナ系ユダヤ人で、しかし70年代にはカトリックに改宗し80年前後には「キリスト教3部作」と呼ばれるアルバム群を制作している。
このようにこの作品はボブ・ディランについて知れば知るほど、さらに深読みできる作品なのだと思う。そして、ここでかかっている曲は魅力的で、ボブ・ディランの曲を聴きたいと思わせる。これはボブ・ディランという伝説への入り口であるのだろう。この入り口からボブ・ディランの世界に入り、またここに戻ってきたらまた違う風景が見える、そんな作品のように思える。
私もボブ・ディランの曲が聞きたくなった。
そしてまたここに帰って来たい。