悪魔の手毬唄
2008/5/2
1977年,日本,144分
- 監督
- 市川崑
- 原作
- 横溝正史
- 脚本
- 九里子亭
- 撮影
- 長谷川清
- 音楽
- 村井邦彦
- 出演
- 石坂浩二
- 岸恵子
- 若山富三郎
- 仁科明子
- 草笛光子
- 加藤武
岡山県総社町に程近い鬼首村、ここに呼ばれた金田一耕助は呼んだ当人の磯川警部から20年前の殺人事件を捜査するよう言われる。その村は由良と仁礼というふたつの名家が権勢を争っており、金田一が泊まった旅館の息子青池歌名雄はそのふたつの名家の娘、泰子と文子のふたりから結婚話があった。
市川崑と石坂浩二による金田一耕助シリーズの第2作。今回も戦後すぐの田舎を舞台におどろおどろしい事件が発生する。2作目にしてすでに定番という感じ。
第1作の『犬神家の一族』を見てからこれを見ると、キャストの同一性に驚かされる。しかも金田一以外は全員別の人間として出演、2作品で同様に刑事を演じる加藤武は「よーし、わかった」というお決まりの台詞までが同じで、別の人間と考えるのには無理がありすぎるくらいのものだが、にもかかわらず無理に感じられないのが市川崑の凄いところ。この無理はこの映画というものが決定的に作り物であることを表明しているわけだが、だからなんだといわんばかりに押し通す。逆に違う役でもどこか共通した雰囲気を持たせることで、シリーズとしての味を出す、まさに職人芸というところか。加藤武のみならず、大滝秀治、草笛光子にもその雰囲気がある。
さて、物語のほうは非常にオーソドックスなミステリーホラー。連続殺人犯があるメッセージを残していくというのは『犬神家』と同じパターンである。犬神家は「よきこときく」、この作品は「手毬唄」、このように殺人に連続性を持たせ、次の事件を予見させ、そこから動機と犯人を推理させるという非常にオーソドックスな展開がとられている。しかし、これがそれほど平凡に感じられないのはやはりこの探偵金田一耕助の突飛さにあるだろう。何かを思いつくととっさに行動し、その行動の意味を観客には明かさない。だから観客はちらりと見せられたその行動の意味を推察し、あーでもないこーでもないと推理を働かせる。すべての謎が整合性を持って納得できることには金田一も事件を解明ということになっている。
いつものように人が死にすぎる感はあるけれど、やはり横溝正史の金田一耕助者はミステリーとしてはさすがのものだ。ただ前作の『犬神家』ほどはスリリングではなかったか。
市川崑はその物語に勢いを与える。短いカットを巧みにつないだカッティング、大げさな音楽、時に不器用にカメラを振りピントをぼかすことで生まれるリアリティ。非常に斬新でスタイリッシュな映像と音を作りながら、それがあくまでも物語の脇役になっている。のだが、時々妙な存在感を主張してもみる。
金田一のふけに仲居がぎょっとするのをわざわざ映すことで金田一という人物の人間性をさらりと表現し、彼を魅力的に映す。映像というのは映像そのもののためにあるのではなく、あくまでも物語と登場人物を表現するためにある。斬新だったりスタイリッシュだったりするのは、その表現方法として最適なものを探求した結果だという当たり前のことを思い出させてくれる。
不自然なほどに血しぶきが上がるのもただ過剰なわけではなく、その行為の残虐さとそこに居合わせた人たちの印象を表現しているのだ。実際にはそんなに血しぶきは上がっていないのかもしれないが、主観的にはそれほどまでに感じられたということのはずだ。
さまざまな人の主観が事実を捻じ曲げ、真実をわかりにくくする。それがミステリーを生む、そんなこともいっているのかもしれない。