サルバドールの朝
2008/5/12
Salvador
2006年,スペイン=イギリス,135分
- 監督
- マヌエル・ウエルガ
- 原作
- フランセスク・エスクバノ
- 脚本
- ユイス・アルカラーソ
- 撮影
- ダビ・オメデス
- 音楽
- ルイス・リャック
- 出演
- ダニエル・ブリュール
- トリスタン・ウヨア
- レオナルド・スバラグリア
- ホエル・ホアン
- レオノール・ワトリング
1973年バルセロナ、フランコ独裁政権下のスペインでは自由を求める人々の活動が活発化していた。警察に逮捕されそうになり警官を殺してしまったサルバドールは弁護士に自身の活動を語る。弁護士のオリオルは警察のずさんな捜査をたてに無罪を勝ち取ろうとするが…
フランコ政権末期に実際に会ったサルバドール・ブッチ・アンティックの事件をドラマ化。決して単純に語ろうとはしないところがずしりと来る作品。
この作品は“社会派”の作品だが、決して安っぽい正義を売り物にしたり、単純に権力に反対したりという作品ではない。体制と権力に対抗することの難しさ、特にそれを正当なやり方で行うことの困難さをひとりの殺人者を通して明らかにしていく。主人公は正義の味方ではなく、ひとりの人間であり、人を殺してしまった男だ。
今から見れば、明らかに非人道的で“悪者”であるフランコ政権に抵抗し、捉えられ、死刑判決を受けた若者は“正義の味方”であり、死刑になったならば“殉教者”であると簡単に言えるはずだ。しかし、このサルバドールは実際に警官を殺している。事件の真相は彼に言わせれば逃げようと思って発砲しただけで、果たして誰の弾が誰に当たったのかはわからないというもの、自分も数発被弾し瀕死の状態に陥った。証拠もサルバドールが発射した以上の銃弾を死んだ警官が被弾していたということになる。
つまり、彼がその警官を殺したかもしれないし、他の警官の弾がその警官を殺したかもしれないということだ。公正な捜査が行われたとしても彼が無罪になるとは思えない。致命傷になったのが彼の弾ではなかったと判明したとしても殺人未遂には問われるだろうし、その点では有罪といわざるを得ないはずだ。
そこがこの作品に重みを与える。サルバドールはあくまで犯罪者であり殺人者なのだ、人が人を殺すということと権力が人を殺すということ、この同一性と相違、それがこの作品の核心だ。フランコ政権の悪辣さは問題ではない。そして、その殺人を巡って問題になるのは、決して事実が明らかにならなかったということだ。独断的な捜査によって死刑を宣告された彼は他のいわゆる冤罪事件の犯人と(犯人としての態様は違うにしても)同じ状況に置かれたと言えるのだ。そしてそこで問題になるのは、“事実”とは何かということだ。
事実というのは常に100%ではありえない。明確な事実と見えることでもそれが100%確実などということはありえないのだ。事実かどうかというのは、それが事実であることがどれくらい信じられるかということに尽きる。たとえば「私は生きている」という絶対的な真実に思えることも、100%とは必ずしもいえない(『シックス・センス』のように)。複数の人間が関わった出来事の場合はなおさらその信頼性は低くなるし、そこにさらに権力が関わってくると信頼性は格段に低くなる。
そのような事実の信頼性について考えていくと、死刑というものに対する疑念が必然的にわいてくる。死というのは事実としての信頼性が「生」と同じくらい高いものだ。ある人が死んだという事実の信頼性は(保険金詐欺でもない限り)相当に高い。その信頼性が高く、取り返すことの出来ない「死」をそれよりも信頼性の低い事実を元にもたらすということに正当性はあるのか。
もちろん、「犯人を死刑にして欲しい」と考える被害者側の人々の気持ちはわかる。この作品でも殺された警官の同僚がその被害者側の人々を代表しているわけだが、ただこれは彼らが権力側にいるということで見るものに親近感を与えず、公平ではないという気もする。この作品はある程度中立だが、映画としてひとつの視点を提供する以上、完全に中立ではありえないということだ。
ともかく、その被害者側の気持ちも重要であることは間違いない。しかし、その気持ちというのは「犯人」を死刑にして欲しいというものであって、「犯人かどうか確実ではないが犯人らしい人物」を死刑にして欲しいということではないはずだ。そう考えるとやはり死刑という制度そのものに疑問が残るといわざるを得ない。
ただ、いま死刑の代わりになる刑罰があるかといわれると難しい。社会復帰を目指すことを前提とするのではなく、罰することを目的とした無期懲役というのが可能なのか、そこにもまた別の疑問が残る。
死刑制度の問題はいつまでも議論しつくせない。