ぐるりのこと。
2008/6/4
2008年,日本,140分
- 監督
- 橋口亮輔
- 原作
- 橋口亮輔
- 脚本
- 橋口亮輔
- 撮影
- 上野彰吾
- 音楽
- Akeboshi
- 出演
- 木村多江
- リリー・フランキー
- 倍賞美津子
- 寺島進
- 安藤玉恵
- 八嶋智人
- 寺田農
- 柄本明
1993年、小さな出版社に勤める翔子は子供が出来、靴修理屋のカナオと結婚することにする。何事にも几帳面な翔子は週三回の「する日」も決め、その日に遅く帰ってくるいい加減なカナオに不満を述べる。そのカナオは学生時代の先輩から法廷画家の仕事を紹介され、戸惑いながらも仕事になじんでいくのだが…
橋口亮輔が『ハッシュ!』以来7年ぶりに監督。自身うつに悩まされたという経験を生かして、孤独と人と人とのつながりを描いた渾身の作品。
この作品は本当に素晴らしいと思う。映画の始まりは木村多江演じる翔子とリリー・フランキー演じるカナオを別々に、しかしそれが夫婦になる二人であることはわかるように映し出す。ふたりの間には子供が出来、結婚することに決めている。翔子は小さな出版社に勤める真面目な会社員、カナオは靴の修理をするいい加減な男だが、翔子は「週3回している」と語る。
ある日、カナオは先輩(美大時代の先輩)に法廷画家の仕事を紹介される。その話で帰るのが遅くなったカナオに翔子は不満をぶつける。それはその日が「する日」で、その日は10時までに帰るという約束だったからだ。この“約束”を巡る二人の会話が凄い。すごいというのは激しいけんかになるとか、おかしいとかいうのではなく、そこにある微妙な心理を見事に描いている点が凄いのだ。ふたりの会話はかみ合わないのだが、そのかみ合わないことをカナオは口にし、それがふたりが通じ合っていることを示す。しかし、やはり最後にはカナオの悪乗りで翔子が怒り、物悲しく終わる。このシーンの台詞の一つ一つ、その言葉が発せられる裏にある心理、それが見事に表れていて凄いのだ。
このように心理がうまく描写できているのは、カナオという人物がそもそもリリー・フランキーを想定して書いているのではないかというくらいにぴったりだからではないか。いい加減で、シャイで、エロくて、でもやさしくて、人に共感する力がある人物。下品だったり乱暴だったりするようなことを時に口にするけれど、その裏には常に相手を思いやる気持ちがある。ただ乱暴な人やただやさしい人を描くことは比較的簡単だけれど、このように心の底にやさしさを抱えた人を描くというのは難しい。それをカナオとそれにほぼ一致するリリー・フランキーが可能にしているのだ。
そして、生まれるはずだった娘を失い、翔子が精神のバランスを崩してうつへと落ち込んでいくところで、彼の優しさと共感する力が大きな意味を持ってくる。カナオは翔子を支える。励ますとか助けるのではなく、支える。倒れそうになっている人のつっかえ棒にそっとなり、その重みをただただ支える。そこから起き上がろうとするのは倒れそうになっている人の意思によるしかない。その意思が生まれるまでなるべく気づかれないようにそっと支える。
彼は的を射たものの見方が出来るのだけれど、それを明かすことはあまりしない。たまに「手はきれい」という言葉とか、汚職で捕まったおっさん三人をコミカルな絵で描いたりして表明することはあっても基本的には社会や人々に求められていることをする。そんなあり方が重要なのだろう。
うつに陥った翔子を見るのはつらい。しかしそこから目をそむけるのではなく、そのような状況の核にあるものを見据え、いい方向に向かうように支える強さ、台風の日に走って家に帰るカナオにはそれが見える。でも、うっかり蜘蛛を殺してしまったりもする。
そういう微妙なつながりが絆であり、それが翔子を支えたのだ。この作品を見ると、人と人との絆を大事にし、愛する人をもっと大事にしなきゃという気持ちになる。感動と書いてしまうことは簡単だが、そんな風に簡単に書いてしまいたくないように心を揺さぶられる作品だ。
その物語は原作者であり監督である橋口亮輔が自身の経験の中から搾り出したものであり、そこからも力作ぶりをうかがうことが出来るのだけれど、私がこれを渾身の作品だと思ったのは、映画作りにかけた時間と手間だ。この作品にはすべての季節が登場し、そのすべてでしっかりとロケを行っている。つまり、撮影に1年以上の期間がかかったことを意味する。そして撮影場所も多岐に渡る。
さらには、映画にとって重要である天候や光をしっかりと得ている。もしかしたらとんでもない幸運に恵まれたのかもしれないが、おそらくそういうことではなく、求める撮影環境が出来るまで果てしなく待ったのだろう。大雪や大雨といったわかりやすい天候だけでなく、裁判所から見える青空や寺に差し込む柔らかな光などそのシーンに意味を与える微妙な天候をタイミングよく捉えそれをフィルムに定着させる。それを実現させる粘りをみると、これは監督にとって翔子の天井画のように自分を立ち直らせていく過程でもあったのではないかと思う。監督はたくさんの俳優に少しずつ出てもらい、支えられ、人とのつながりを確認しながら立ち直っていった。そんな作品でもあるような気がする。だからこそここまで力がある
のではないか。
そして、カナオが法廷画家として傍聴するさまざまな裁判、そこには90年代の日本で実際に起きた「話題の」事件が次々と登場する。それらの犯罪を通して私たちは人間と社会との関わり方(とその変化)を見つめざるを得ない。これは歴史ではなく、あくまでも個人の経験としての事件であるのだけれど、生きるうえでそれらの事件を無視することが出来るわけでもない。個人の問題に終始するのではなく、そのような形で社会とのつながりも描きこむこと、それもこの作品に力があるひとつの理由だ。
最後に私が一番好きなシーンを。それは泣きじゃくる翔子を慰めたカナオが翔子にキスしようとして鼻がたれているのを見てやめるというシーン。翔子の鼻をかんでやったカナオはさらに「ものすごいいっぱいでた」という。この感動的なシーンに盛り込まれた(下品な)ユーモア、そしてやさしさ。このシーンにはこの作品のエッセンスがぎっしりと詰まっている。
2時間20分は決して長くない。