その名にちなんで
2008/6/18
The Namesake
2006年,アメリカ=インド,122分
- 監督
- ミーラー・ナーイル
- 原作
- ジュンパ・ラヒリ
- 脚本
- スーニー・スクリューワーラー
- 撮影
- フレデリック・エルムズ
- 音楽
- ニティン・ソーニー
- 出演
- カル・ペン
- タブー
- イルファン・カーン
- ジャシンダ・バレット
- ズレイカ・ロビンソン
コルカタで列車の事故にあった学生のアショケはアメリカにわたり、3年後見合いのためにインドに戻りアシマと結婚する。ふたりはニューヨークでふたりの子をもうけ、ゴーゴリとソニアと名づける。やがてふたりの子供はアメリカ文化に染まり、ゴーゴリはその名前を嫌がるようになるが…
ピューリッツァー賞を受賞した同名小説をインド出身の女性監督ミーラー・ナーイルが映画化。アメリカで生きるインド人家族の姿を静かに描いた。
他民族都市ニューヨークに暮らすインド人家族の物語ではあるけれど、物語の中心はインド人家族とニューヨークあるいはアメリカとの軋轢よりは、その家族自体にある。列車事故で一命を取りとめ、決意を持ってアメリカにわたった父アショケとそのアショケと結婚し、アメリカにわたることになったアシマ。そのアシマが文化のまったく異なるアメリカに戸惑うというエピソードはほんのわずかだ。
アシマが本当に文化的な隔たりを感じるのは、大人になった自分の子供たちと自分との間の価値観の違いである。自分が育ったインドの伝統的な価値観とはまったく違う価値観を子供たちは身に着けている。アシマはその違いを頭ではわかっているのだが、息子のゴーゴリが白人のガールフレンドを連れてきて、気安く手をつないだりするのを見ると、つい反応してしまう。しかしやはり若者にとっては不自由なインドの伝統的な価値観よりも自由なアメリカの価値観のほうが気安く、ゴーゴリはガールフレンドの家に入り浸る。
しかしこれは親子の断絶を意味しない。アシマも子供たちのことを理解しようとしているし、子供たちも心の底ではやはりインド人なのだ。それが映画の後半に表れてきて、親子の間の隔たった距離は少し縮まる。
この親子の物語は、決して彼らがニューヨークに住むインド人だからといって特別なわけではない。世代間の価値観の違いは時間と場所を超えてどこにでも存在する。この家族の場合はその世代間の違いとインドとアメリカという文化圏の違いが重なり合ってその隔たりが大きくなったというだけのことであって、これ自体は誰もが子としてそして親として経験する軋轢なのである。
だからこの物語は遠い世界の話ではなく、誰もが身近なものとして感じることが出来る物語になっている。しかし、残念なのはそのように身近なものになってしまったことで、ニューヨークのインド人というトピックのインパクトが薄まってしまったことだ。インドという国は映像で登場するだけでインパクトのある国だ。そのインドと欧米の文化の違いは見た目にも明らかである。にもかかわらず、それを明確に示すのは白人のマクシーンと同じく欧米で暮らすインド人であるモウシュミだけなのだ。
マクシーンは人種や文化の違いを気にしないという進歩的な姿勢を取りながら、そのことが実は文化を踏みにじっているということを理解しない典型的な白人の態度を見せ、モウシュミは過度に欧米化してルーツを見失ってしまったマイノリティの典型となる。ここがもう少し掘り下げられていたら、もっと興味深い物語になったのだと思うのだが。
しかしだからと言ってこの映画が面白くないというわけではなく、親子の物語として十分に面白いものでもあるし、その親子関係には常に異なる環境という要素が入り込んでくる。特にアショケの息子の育て方には息子がアメリカという地で生きていかなければならないが故の気遣いがたくさんある。息子の名前の由来を言わないのも、名前を変えるのを許すのも、個人を尊重し、何事も自分で選択しなければならないアメリカの環境を考えてのことだ。
そんなアショケの想いは見ているほうにもじわじわと伝わってくる。派手な展開はないけれど、人間はしっかりと描けている、そんな作品だと思う。