雪崩
2008/7/31
1937年,日本,59分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 原作
- 大仏次郎
- 脚本
- 成瀬巳喜男
- 撮影
- 立花幹也
- 音楽
- 北猛夫
- 出演
- 佐伯秀男
- 霧立のぼる
- 江戸川蘭子
- 汐見洋
- 英百合子
金持ちの息子日下五郎は駆け落ちのように蕗子と結婚するが、五郎の父はそれを祝福する。1年後、五郎は幼馴染の弥生に心惹かれるようになり、蕗子と離婚することを考えるが、優しい父がそれに強固に反対する。それでも意志を通そうとする五郎だったが…
成瀬が大仏次郎の原作を映画化したドラマ。助監督には黒澤明がついた。
基本的な話の骨子は世代間の相克にある。親世代と子供世代の価値観の違いというのは文学においても映画においてもくり返しテーマとなってきたものだが、ここでもそれが繰り返されている。この息子五郎は親の同意を得ることなく結婚するが、五郎の父親はそれを簡単に認める。しかし、その五郎はわずか一年後に幼馴染の弥生への想いを復活させ、妻の蕗子と別れようとするのだ。五郎は父親だけはわかってくれると期待するが、その父親が最も強くそれに反対する。
ここでふたりは長々と主義主張を戦わせる。要は五郎は自分に嘘を付きたくないし、妻のためにも手遅れになる前に別れたいというのだが、父はそれがわがままに過ぎないということを指摘する。五郎は自分勝手で人を不幸にしている最低の男なわけだ。これに対して五郎は自分の気持ちを偽って生きることこそ卑怯だと主張する。 この作品の最大の問題点は、完全に父親の主張が勝っているという点だ。世代間の対立を映画いているようでいながら、実際のところ金持ちのボンボンが駄々をこねているに過ぎない。駄々をこねる大義名分として世代間の価値観の違いを持ち出しているだけだ。
そう考えると、この作品は生活に困ることのないブルジョワの空論のむなしさを皮肉たっぷりに描いたと考えることも出来る。ブルジョワなんてのはいろいろえらそうなことを言っているが、結局のところ中身が空っぽな阿呆で何の役にも立ちはしないということだ。
そう考えると五郎の徹底的な無表情も、弥生を演じた江戸川蘭子の異様なまでの棒読みも作り物じみた感じを出すための演出だと理解することも出来なくはない。
映画の終盤に蕗子の父親が登場し、金持ちを批判しながら五郎の父親だけはちょっと違うといい、士族の商法から一家財をなした人物だから気の使い方が出来ているのだというようなことを言うのだ。ここにこの作品のすべてが集約されているような気がする。金持ちは基本的には何の役にも立たないが、彼のような人格者もいないわけではないということ。結局五郎のうちはその父親でもっているわけで、最終的には“人物”ということだ。「頭がいい」という五郎だから金持ちというハンディに負けず、父のような人格者にもなれるかもしれない。
しかしそれでもやはり全体的には納得できない感じが残るし、いまひとつ「成瀬らしく」ない。翌年には『鶴八鶴次郎』を撮り、確実に名手への道を歩んでいく成瀬だが、この作品は作風という点では「小津は二人要らない」と言われた松竹時代へと戻ってしまったかのように思える。
主張というか、社会とのかかわりを描いているという面では成瀬らしさが出ているともいえるのだが、表現の仕方がちょっとまずかったかも知れない。