ヒロシマナガサキ
2008/8/11
White Light / Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki
2007年,アメリカ,86分
- 監督
- スティーヴン・オカザキ
- 脚本
- スティーヴン・オカザキ
- 撮影
- 川崎尚文
- 出演
- ドキュメンタリー
1945年8月6日に広島、9日に長崎に落とされた原爆、その真実を米軍の資料映像、米軍関係者と被爆者へのインタビューによって明らかにしようとした日系3世のスティーヴン・オカザキ監督によるドキュメンタリー。
アメリカのケーブルテレビHBOで1ヶ月にわたって放映され、原爆の事実をアメリカ全土に広めたとして話題になった。
この作品の最初の衝撃は原宿でのインタビュー、インタビューを受ける日本人の若者たちは「1945年8月6日」と聞いても、その日付が何を意味するか知らない。これはもちろん、この作品にインパクトを与えるための演出であり、日本の若者のほとんどが「1945年8月6日」の意味を知らないわけではもちろんない(と思いたい)。このシーンには二つの意味があると思う。ひとつは文字通り、原爆の記憶は日本でも風化してきてしまっているということ、もうひとつはこの作品がスティーヴン・オカザキ監督の“主張”であるということだ。
ドキュメンタリーというとどうしても“客観的な事実”を示すものというイメージが付きまとうが、決してそんなことはない。ドキュメンタリーとは事実を素材にした“物語”であり、それは中立的な視点で語ることもできれば、ある立場を代表した視点で語ることもできれば、完全に個人の考えを主張することもできる。この『ヒロシマナガサキ』という作品は、スティーヴン・オカザキ監督が広島と長崎の事実について丹念な調査とインタビューを重ねた上で、自分なりの意見をまとめた“主張”なのである。
その作品において、「風化しているヒロシマの記憶」を作品の最初に持ってきたというのは、この作品がまず広島や長崎をよく知らない人々に向けられていることを明らかにする。しかも、この作品はHBOという全米にネットワークを持つケーブルテレビ局の支援で製作され、そこでの放映がすでに決まっていた。それを前提に制作されているからには、原爆投下についてほとんど知らないアメリカ人に向けて作られているということでもあるのだ。
だからこの作品は基本的に、原爆の被害の大きさ、惨さを伝え、「60年前にこんな悲惨なことがあった」ことを記憶にとどめておくべきだということを主張している。被害者のインタビューと今も残る傷跡、投下直後の米軍の資料映像の生々しさは、その事実を記憶に刻むのに大きく寄与している。
これは非常に重要なことだ。映画は時に風化させてはいけない記憶をとどめるのに役立つ。この作品はその点で重要な役割を果たしうると思う。
しかし、この作品はほとんどそこまでにとどまっていると思う。すでに原爆についてそれなりに知っている人、それについてもっと考えたいと思っている人にはあまり訴えるものがない。米軍の資料に映っていた被爆者を探し出し、当時の姿と現在の姿を結びつけたその構成は非常に見事で、60年という時間が原爆の悲惨さを少しも薄めるものではないということを目に見える形で示したという点はすごくいいと思う。だが、たとえば被害者に対する差別という点について言えば被爆直後の差別にしか触れず、現在までその差別が残っているということには触れていない。
原爆投下に対する考え方も、投下した側のアメリカ軍の人々へのインタビューを入れ、悲惨な被害の資料とその発言との間の違和感を演出することでその意義への疑問をほのめかすことはしているが、そこまでだ。これはもちろんアメリカのTV局向けのドキュメンタリーであるという理由も大きいとは思うが、見る側がこの問題について考えるための材料をもう少し提示してもよかったのではないかと思う。
この作品はあくまでも出発点だ。私は小学生のころ「はだしのゲン」を読んで“原爆”を明確に意識するようになった。聞くところによると、スティーヴン・オカザキ監督もこの「はだしのゲン」の英語版を読んで原爆に興味を持ったという。だからこの作品でもその作者の中沢啓治氏にインタビューをしているわけだ。
この作品は、私やオカザキ監督にとっての「はだしのゲン」のように原爆についての原体験となりうるものだ。そこから先それぞれがどう考え、何に目を向けようとするのか、本当に重要なのはこの作品の先にあるものなのだ。