朝を呼ぶ口笛
2008/8/20
1959年,日本,62分
- 監督
- 生駒千里
- 原作
- 吉田稔
- 脚本
- 光畑硯郎
- 撮影
- 篠村荘三郎
- 音楽
- 鏑木創
- 出演
- 田村高広
- 瞳麗子
- 加藤弘
- 沢村貞子
- 殿山泰司
- 山内明
- 吉永小百合
中学3年生の吉田稔は新聞配達をしながら高校進学を目指していた。しかし、怪我をした父親の代わりに内職で稼いでいた母親が過労で倒れ、手術が必要とわかる。稔は手術費用を捻出するために高校進学をあきらめようと考えるが…
小中学生の作文コンクールで文部大臣賞を受賞した『新聞配達』の映画化。吉永小百合のスクリーンデビュー作でもある。
成績は優秀だけれど、家が貧乏なために自分で新聞配達をして高校進学のために貯金をしていたが、母親が手術しなくてはならなくなって、高校進学をあきらめるというあらすじを聞いただけでなんだか悲しくなってしまうような話だ。
話はそれだけの単純なものだが、その稔に勉強を教える須藤という男の就職と結婚の話、稔が新聞配達先の少女に恋心を抱く話なんかがそこに織り交ぜられる。物語の展開も、映像の作りもまさに正統派、効果音も明確にこれから何が起こるかを述べるように鳴る。しかしそれでもこういう話は涙を誘う。昭和30年代の“ハンケチもの”の偉大さだ。誰もが貧しかった時代、貧しさと闘う人たちの姿は共感と感動を誘う。映画を見る大衆の多くは貧しく、絶え間ない苦労をしのんで生きていた。だからこそ、こんな“ハンケチもの”が無数に作られたのだ。
豊かになった今でも、なぜかこれらの作品は涙を誘う。日本人全体の心のそこに貧しさが染み付いているかのように、共感を誘うのだ。
ただ、現在から見ると、子供に苦労をかける親の話というのはどうにもただただつらいだけで希望が持てないという気がしてしまう。この稔君は新聞配達仲間のやさしさに助けられて、何とかその危機を乗り切るわけだけれど、親のために子供が苦労する、その切なさは共感を越えて、ちょっときついとすら感じる。
しかも、この15歳の少年はすでに完全な社会の一員なのだ。そのように早くから社会の一員になることで成長することもあるけれど、しかしやはり15歳でこのように一人の労働者として生きるというのは現代から考えるとかなりつらいことだ。そこにどうしても目が行ってしまう。
しかも、このように少年が「仲間」として扱われ、仲間同士なんだからと言って助け合う姿は、どこかで労働者の団結とか、プロレタリアートという言葉とつながる。まあ、それも時代ではあるのだが、そういうにおいがしてしまうと、そのメッセージばかりがたってしまい、シンプルな“ハンケチもの”としての魅力は減じてしまうとも感じる。
そして、そんな労働者階級の稔があこがれるのはいいところのお嬢さんだ。それが吉永小百合なわけだが、このような構図が見えてしまうがゆえに、これまた単純な少年の初恋というように見れなくなってしまって後味が悪い。
この時代の空気に完全に浸って、味わうなら涙涙の映画だが、現代という視点を入れてしまうと、ちょっと鼻白いものを感じてしまうだろうと思う。