エコール
2008/8/27
Innocence
2004年,ベルギー=フランス,121分
- 監督
- ルシール・アザリロヴィック
- 原作
- フランク・ヴェデキント
- 脚本
- ルシール・アザリロヴィック
- 撮影
- ブノワ・デビエ
- 音楽
- リチャード・クック
- 出演
- ゾエ・オークレール
- ベランジェール・オーブルージュ
- リア・ブライダロリ
- マリオン・コティヤール
- エレーヌ・ドゥ・フジュロール
棺の中から出てきた少女イリスは年の違う少女たちに迎えられる。ここは森の中にある謎めいた学校。少女たちは12歳で卒業するまで一度も森から出ることはない。最初は不安がっていたイリスだったが、寮の最年長ビアンカと過ごすことでその生活になじんでいく…
ドイツの劇作家フランク・ヴェデキントの中編小説「ミネハハ」をギャスパー・ノエのパートナーとして知られるルシール・アザリロヴィックが映画化。少女たちの妖しげな世界を描いた。
最初から少女が裸で登場し、そのようなシーンが続く。少女の裸というのは今となっては少女性愛者のイメージが付きまとい、児童ポルノという“悪”とつながってしまうわけだけれど、そもそもは無垢なものの象徴と受け取られてきたわけだ。この作品が意図するのは、おそらくそのような“無垢なもの”としての少女の復権ではないだろうか。制作者だって、少女の裸が少女性愛者を想起させることは知っているはずだ。にもかかわらずそれを前面に押し出すのは、そのイメージを提示し、その後それを覆すことを意図しているからではないか。
この学校は謎に満ちている。少女たちはどこからやってきてどこに行くのか? 先生や召使として働く大人たちは何者なのか? 逃げ出した少女はいったいどうなるのか? それらの謎は謎としてありながら物語は展開してゆき、最高学年の生徒たちが舞台で踊りを披露するという事実が明らかになることで、謎が少し解ける。
そしてまた、この舞台こそが純粋なる少女像と性愛の対象としての少女の境界でもある。というのは、この少女たちの舞台を身に来るのは、おそらく少女が好きな大人たちであるだろう。しかし、そこに提示されるのはあからさまな性愛の対象ではなく、白いレオタードに身を包んだ無垢な肉体である。そこを訪れる大人たちはそれが無垢な少女であるからこそその舞台を見に来る。
ここに少女と社会との最初の出会いがある。無垢な少女と社会の欲望、それがぶつかる境目がこの劇場であるというわけだ。ここで少女たちは暗がりに潜む欲望の眼にさらされ、社会の一端に触れる。
しかし、それだけで少女たちの純粋さは損なわれない。彼女と社会の間には常に劇場という壁が存在していたからだ。だから、外に出たビアンカがためらいも恥じらいもなく下着姿になって噴水の中に進み行く。このときわれわれが感じるのは、純粋な少女の危うさと世間の目の穢れである。彼女はここでついにリアルに社会の目にさらされたのである。
つまり、これは純粋培養された文字通り純粋な少女たちを描くことで、社会の“穢れ”を描いた作品だということだ。
しかし、それがなんだというのか。そんなものを描くことで何を言おうというのか。結局この作品は、少女性愛者が好んでみる児童ポルノと何が違うのか。穢れた社会がこの作品を児童ポルノと区別するほどこの作品に別の価値があるとは私には思えない。
他に、この作品を受け入れる人がいるとすれば、それは純粋無垢な少女の世界を好む耽美主義者だろう。それは、ある意味では夢への逃避、現実には存在しないことは知っているけれど、それがあったらいいのにという夢想である。そんな夢の世界をこの作品は描いているわけだ。そのような作品としてみるならば、この作品は成立しえる。しかし、その場合でもこんなに少女の裸に固執する理由はわからない。耽美的な世界には必ずしも裸は必要ない。もちろん性を感じさせない裸の存在は耽美的な世界を強化しはするけれど、ここまで強調することはないと思うのだ。
だから、どうもこの作品は後味が悪い。