動物、動物たち
2008/9/17
Un Animal, Des Animaux
1994年,フランス,59分
- 監督
- ニコラ・フィリベール
- 撮影
- フレデリック・ラブラス
- ニコラ・フィリベール
- 音楽
- フィリップ・エルサン
- 出演
- ドキュメンタリー
19世紀末に立てられ、1965年から閉館していたパリ国立自然史博物館の動物学大ギャラリーが91年から4年間かけて改修された。たくさんの動物の剥製が、修復・清掃され、改修された建物に新たなコンセプトで配置されてゆく様子を追う。
ニコラ・フィリベール3作目の長編ドキュメンタリー。
古めかしいが、荘厳な建物、その中でじっと佇んでいるたくさんの剥製たち。モノクロの写真で示された以前姿がかもし出す静寂は唐突に破られ、建物の内装を取り壊す工事の轟音が響く。せっせと工事を進める人々や重機とピクリとも動かない(あたりまえだが)サルの剥製とが交互に写されて、まず剥製というものの不思議さと魅力が提示される。
剥製というのは生きていた動物から作られ、生き生きとした表情をして今にも動き出しそうなのだが、決して動かない。それを眺めていると、なんだか急に時間が止まって静止した時間の中で生きている生き物を眺めているかのようなSF的な感覚がしてしまう。そのどこか日常とは異なった感覚というのが剥製の不思議さであり、魅力であるのだろう。
剥製師たちは、剥製たちにその魅力を与えるべく、色あせた皮膚に色を塗り、抜けてしまった毛を植えなおし、時には皮をかぶせる土台そのものを作り直す。もともとの骨格がそのまま残っているものもあれば、本物なのは毛皮だけで中身は詰め物だったり、張りぼてだったりするものもある。映画の中盤に来るのはそんな剥製の修復の光景が中心で、時にグロテスクな場面もあるが、この部分は非常に興味深い。
終盤になると、新しい博物館での展示プランの話が中心になってくる。そこでは科学者たちが登場し、いかに現実を反映し、しかも見るものをひきつける展示の仕方をするかということで博物館側に色々と注文をつける。蝶はたくさんいたほうがいいとか、もっと間隔をつめたほうがいいとか言うわけだ。
しかし私はなんだかこのあたりで興味を失ってしまった。それは、彼らの言っていることが剥製の魅力を減じてしまうことのように思えてからだ。もちろん博物館としては、自然をリアルに再現し、剥製によって自然のあり方やあるいは進化の過程を説明するということが第一の使命であるわけだ。その観点からは科学者のやっていることは間違っていない。
だが、この映画の中盤までで剥製たちが放っていた魅力はリアリティとは別のところにあるものだった。それは非日常の、ある意味では異形の魅力、日常ではありえない光景の持つ魅力、つまりリアリティが欠如したものの魅力である。それが奪われていくようでなんだかつまらなかったのだ。それでなんだか興ざめしてしまったわけだ。
それでも、最後まで実際に展示されるところを映さなかったのは監督自身も剥製にそのような魅力を感じていたからだろう。まだ壁もできていないがらんどうの展示室にビニールを翔られて並べられた剥製たちはまったくリアリティの彼岸にいる。最後も黒バックで次々と剥製たちの姿が映り、現実感を喪失させる。
しかし、その前ですでにリアルな世界の一員として人々の前に現れることが明らかになってしまった剥製たちからは魅力の大部分が失われてしまっている。最後に次々と映される剥製たちには張りぼてにかけられた牛の皮のような魅力はない。
私はこれは映画の構成の仕方の失敗であると思う。監督が剥製の非日常的な魅力を感じ、それを描きたいと思ったなら、それを徹底的に描けばよいのだ。あるいは逆に監修されて素晴らしい博物館として生まれ変わってゆく過程を徹底的に描いてもいい。この作品は非日常的な魅力にひきつけられている事実と、改修の記録でなければならないという要請の間で引き裂かれ、中途半端なものになってしまっている。それが退屈さにつながってしまっているのだ。
個人的には、まず改修の記録として最初から最後までを描き、次に剥製の妖しい魅力に焦点を当てて改修の過程を描くという2部構成になっていたら面白かったのではないかと思う。
ドキュメンタリー作家というのは被写体の要請と自分の欲求に引き裂かれることが多い。その相反する欲求にどのように答え、それを映像にしてゆくかというところに作家の力量と独自性が出るのだと思う。フィリベールは被写体となる共同体に入り込んで作るのが得意な作家だろうから、この作品ではうまいやり方が発見できなかったのではないかと思う。