僕たちの舞台
2008/10/1
Qui Sait?
1998年,フランス,106分
- 監督
- ニコラ・フィリベール
- 撮影
- カテル・ジアン
- 音楽
- フィリップ・エルサン
- 出演
- ドキュメンタリー
ストラスブールの国立演劇学校の生徒たち15人がそれぞれストラスブールについて調べ、それについて劇を作るために集まった。それぞれに意見を出し、即興で演技をして、和気藹々とした雰囲気の中少しずつ劇が形になっていくが…
ニコラ・フィリベールが演劇学校の若者たちの一晩の活動を追ったドキュメンタリー。
この作品の時間は夕刻から早朝まで、ほんの数時間の出来事だ。演劇学校の若者たちは、それぞれストラスブールについて何かを調べてそれを持ち寄る。ひとりはコウノトリの鳴き声を録音し、ひとりは盲目の老人と大聖堂に行った経験を語り、ひとりはバーを飲み歩いた体験を語る。
意見を持ち寄った彼らがさっそく喧々諤々の議論に入るのはいかにもフランスらしい。誰もが自説を主張し、結局即興でそれぞれのテーマについて演じてみることにする。その即興の寸劇のようなものはなかなか面白い。練習場といいながら、しっかりと照明にも凝っていて、それ自体ひとつの劇として十分に見ることができる。さすがは演劇学校の生徒たちという感じだ。そして、悪ふざけというか大胆な試みがまたその劇に独特の味わいを加えていていいのだ。
一通り演じたあとはまた議論に入る。しかし、議論のほうは若いと言うべきか、それぞれが自分の思っていることを勝手に主張しているだけで、議論にはなっていない。それぞれが相手の意見を理解して結論にもっていくというよりは、それぞれが自分の意見を他の人たちに押し付けているようにしか見えない。だから、この議論というより言い合いには決して結論はないし、それをとらえ続けるシーンもなんだか無駄に思えてしまう。彼らの真摯な姿勢はわかるから、それと議論の不毛ささえ伝えればこのシーンは十分だと思うのだが。
この議論の行き着く先は、劇もまたまとまらないということだろう。しかし、劇というのは必ずしもある結論に向かって進まなければならないわけではないというのは確かだ。ここで示された素晴らしい寸劇がモザイクのように組み合わさり、そこに誰か一人狂言回しのような存在がいれば、それでこの劇は今のストラスブールを表現するものになるだろうという気がする。
この映画に結論はない。劇はまとまらないまま若者たちは朝を迎え、明日からは授業があるということで今後の予定も立たないまま映画は幕を下ろす。彼らの劇は完成したのかしなかったのか、それはわからない。しかし、完成したとしてもしなかったとしても、この作品の彼らの劇が記録されてよかったと思う。そこには劇が生まれようとする瞬間にしか表れない生き生きとしたものが見えたからだ。
映画としては冗長だし、ドキュメンタリーとしての対象との立ち位置の曖昧さも気になるし、あまり評価できる作品ではないと思うが、そこに記録されているものの輝きは見るに値する。ドキュメンタリー映画にはそういう要素もあるから興味が尽きないのだ。